五條市教育委員会/中家文書調査報告書

中家文書調査報告書

第三章 解説

第三節 伝馬所

第二項 馬借所争論

 幕府の評定所(寺社奉行黒田豊前守ら四名・江戸町奉行大岡越前守ら二名・勘定奉行駒木根肥後守ら四名)によって下された裁許状である。aの元禄一六年(一七〇三)の辻弥五左衛門裁許状と共に、以後の判例として最も重視された文書である。〔箱2-19〕の裁許状はもとより、他の文献にもその写しが控えられている〔箱1-15・20・49、箱3-346など〕。また、当時江戸へ出廷していた代表団の書状による五條への報告〔箱1-15・20〕には様々な人脈、役人との「内証」の話し合いや「於御評定所、二月廿五日被為仰付相済」「首尾能」など生々しい文言がある。あるいは「川向六ヶ村」の野原村・霊安寺村・御山村・中村・黒駒村・大津村の江戸着の状況が記される。更に、享保の飢饉における米価の上下、大火の被害、火付け盗人の「百人余の火あふり」などの江戸の風聞も届けられている。一方、五條村の隣村野原村との訴訟もほとんど同時期に奈良奉行所や奈良代官所に提訴されていた。抜け道を通る、中村番所で暴力を振るう、深夜に通るなどの不法行為についての出訴である。橋本町との訴訟と関連するため、奈良奉行所側は橋本町の訴訟が進展するまでの延期を通達することになる。特に〔箱1-18〕はその時の各種訴状が纏められ、〔箱1-19〕は代表団が奈良奉行所へ出廷のため奈良において宿泊した具体的な状況を記録した貴重な文書である。中家文書において、下書きや断簡文書も含めて数多く関係文書が伝えられたのが、この時の野原村・橋本町両者との出入り一件である。
 実は橋本町とは享保三年(一七一八)以来悶着が燻り続けていた。新駄賃と馬の順番制をめぐって五條側が紀州藩へ訴えたが、これについては五條側の主張が認められた。しかし、「川南坂部郷并丹原・霊安寺・加名生谷迄橋本馬之稼場」と主張する橋本町側と「五条村馬借構之商荷物」との立場の五條側との溝は容易に埋まらなかった〔箱1-1、箱3-348〕。享保七年(一七二二)、八年(一七二三)と続く評議の後、享保九年(一七二四)になってようやく江戸の評定所で決着がつけられ、五條側三ヶ村の主張が認められたのである。要点は三つあって、一つは宇智郡中村より上への橋本町馬荷の通行を禁止すること、一つは中村番所を通行する場合は口銭を徴収すること、今一つは寄牛馬から場銭を一駄につき鳥目五銭を課税することと定めて享保三年(一七一八)以来の争点に対して妥協がはかられたこと、以上三点である。橋本町や野原村との論争点で根幹をなしていた五條馬借所の特権の及ぶ範囲が、宇智郡中村を境界とすることに幕府評定所が判断を下したのである。これによって馬借所の特権取得以来の懸案であった橋本町馬借所との馬借構場にかかる境界紛争に区切りが着けられた。