五條市教育委員会/中家文書調査報告書

中家文書調査報告書

第三章 解説

第三節 伝馬所

第二項 馬借所争論

 近世において何度も繰り返された訴訟の中で最初期の典型的出入は、元禄一六年(一七〇三)二月に奈良代官辻弥五左衛門(守誠)によって裁許が申し渡された吉野郡加名生谷村々との争論一件である〔箱2-18〕。五條市大津町の表野家文書にも関連文書が残されている。中家文書では、〔箱1-17〕をはじめとして〔箱1-6〕などの関係文書がある。この訴訟では五條村・須恵村・新町村三ヶ村のうち須恵村は不参加であるが、その理由も記されている。五條馬借所を経由せずに、吉野郡加名生谷村々~宇智郡表野村~紀州恋野村~橋本間の往来馬荷物を許可するかどうかの争論である。五條馬借所側は、この新流通経路が成立し認可されれば「是以五条へ壱駄出可申様無御座」〔箱1-7〕、「諸荷物不残紀州表へ可参」〔箱1-10〕との強い危機意識をもって訴訟に臨み、五條村・新町村側の主張が公儀によって認められる結果となった。これは後々の五條村と紀州橋本方面との間で衝突が起きた場合の五條側の基本的判例とされた一件で、その裁許状の写しが〔箱3-346〕、〔箱1-49〕などにあり、或いは判例としてしばしば引用されたりしている〔箱1-2・5・9・10など〕。特に享保九年の評定所の裁許状〔箱2-19〕がこれを踏まえて判決が下されていることからもわかるように、五條馬借所の特権を担保する端緒の裁許文書となった。重要な案件なので経過をたどっておく。
吉野川(紀ノ川)筋の紀州芋生村に「積渡シ新船」を拵え、「夫ヨリ和州境恋野村迄紀州領分新大道を作り、夫ヨリ宇智郡坂部郷之内、表野村境法師ヵ坂と申坂、大道ニ作」ることによって「紀州馬を加名生谷へ直着」にする計画が進んでいるというのである。加名生谷村々が五條村・新町村の訴訟の相手となっているが、実際はかなり広がりを持つ出入であった節がある。紀州伊都郡橋本町、同郡恋野村、同郡芋生村付近の馬道用の大道作り(芋生村・恋野村道作りに田地切添をする高は紀ノ川の川北に七石余、川南に七石余都合拾四石余引高が生じるが、橋本町がそれを引き請けるとする)、大船建造、加名生谷への道を荷馬通路とする計画(法師ヵ坂は村から山への牛道であるがそれを拡幅する計画)などである。法師ヵ坂を領分とする表野村は当然として、吉野郡加名生谷の和田村・北曽木村、宇智郡の黒駒・大野・大津・中・御山・丹原・火打村など吉野川の川南村々を中心として多数の村々が召喚されたり口書が作成されている。ちなみに、「加名生谷之義、村数十一ヶ村御座候へ共、高千石程之所ニ御座候」〔箱3-352〕。
 更に、加名生谷村々はもとより吉野郡各地から表野村法師ヶ坂を通って橋本町へ運ばれる荷物道の開拓は、五條を中継地に御所町を介して大和川の釼先船によって大坂・堺方面へ輸送されるコースも打撃を受けることになる。河内国古市郡碓井村・古市村・和州葛上郡御所村の釼先船の問屋が「諸荷物不残紀州表へ可参由ニて奉驚入、私共御訴訟」〔箱1-10〕を行っている。橋本方面への新たな輸送ルートの開拓は、地域社会の「渡世もひしと相止ミ、馬借所不相勤」ばかりではなく、「和州半国之百姓悉ク損失」だとまで言い切っている。