五條市教育委員会/中家文書調査報告書

中家文書調査報告書

第三章 解説

第三節 伝馬所

第一項 伝馬所の成立と構場

 五條村の領主であった郡山藩主松平下総守忠明の播磨姫路への転封と丁度入れ違うかのように、公儀(幕府)から伝馬定の高札が五條村に与えられたのは、寛永一六年(一六三九)四月一一日のことである(中家高札)。ことの発端は吉野川(紀ノ川)下流の紀州橋本町が、寛永八年(一六三一)になって橋本より上流へ向けての荷物積の通船を禁止したことである。和歌山方面から上ってきた船が橋本止めとなるということは、上流にある五條地域の村々にとっては死活問題である。そこで当時の「御地頭松平下総守様」へ訴えたところ、「紀州馬相留、五条村ニ而荷物継送り候様ニと被仰付」れたことによって伝馬所の運営が開始された〔箱1-76〕。ただ、公儀から下された高札は寛永一六年(一六三九)であるが、実際の伝馬所の事実上の運営は、当時未だ五條村の領主郡山藩主松平下総守の治世下であった寛永九年(一六三二)には既に始まっていたと考えられる。新町への諸税免除の特権を与えたのがやはり領主が松平下総守の時代の寛永八年(一六三一)一一月一六日であるらしいことも考慮すべきであろう(『四〇〇年記念誌』)。郡山藩が新町の地域振興策を採用して諸税免除の特権を新町に付与し、その翌年に今度は五條村に伝馬所の運営の特権を与えたのである。つまり、直接のきっかけは紀州藩の政策に対抗するための伝馬所設置措置であったが、郡山藩主による当時の地域振興策の下で寛永九年(一六三二)から認可され、寛永一六年(一六三九)になって公儀から新たに制札が下されたのだと考えられる(ただし、異説がある)。
 更に五條から和歌山方面へ下った船がやはり橋本町(橋本町絵堂之前浜)止めとされた。和歌山方面への積み荷物は、直通りが出来ずに橋本町で橋本側の船への積み替えを余儀なくされることになった。この措置は、寛永二一年(一六四四)、五條伝馬所の設置への対抗として橋本町が上流から下流への直通船を止めて「橋本船継」にしたのだという(『橋本市史近世史料Ⅰ』)。
 川上へ向けての船を橋本町止めとすることは勿論、五條地域の持ち船の往来すら禁止する紀州藩の施策は、上流の五條地域にとって失ったものは大きかったはずであるが、五條においては延宝九年(一六八一)一〇月二一日にも再び高札が出されており、そこで荷物の長櫃の重量などの規定が示され、伝馬の制をさらに整備して体制を確立していった〔高札と箱3-346〕。この高札については既に『五條市史』で紹介されている。しかし、まもなく近接する諸地域と幾つもの摩擦が生じてくる。紀州橋本町の馬借と五條の馬借のテリトリーをめぐる衝突が典型的事象である。五條馬借所の縄張り(構場)は、当初からその範囲が固定していて運営が始まったというよりも、周辺の地域と訴訟を通じて認知させてきた側面があることは否めない。対抗的措置として急に成立した特権は、主張し、提訴することによって保持を担保し保証することに直結したのだろう。紀州藩の政策は、橋本町より川上に当たる五條地域から突如として物資輸送の自律的なすべを奪ってしまう結果になったのであって、その対抗上からいわば自衛策として五條馬借所が設定されたため、吉野川の河南道筋では天領の宇智郡中村を境界とし、ここに堀切を作り、番所を置いて橋本町側の馬荷物の通行を制限し五條の馬借所運営の条件を確保しようとした。ただし中村と紀州橋本町間は両者の馬借の往来は自由勝手であるとしている。一方では本街道に当たる伊勢街道(紀州街道)における五條~橋本間は相互に馬借の乗り入れについての特別な制限措置はとられていない。他方その逆方向における五條馬借所の通路範囲は吉野郡越部村迄であるという。「上ハ越部村限五条馬稼申候、尤下市邊迠も通路仕来り申候、但商荷物之儀ハ下ハ橋本限り、上ハ何方迠も無限通路」〔箱1-76〕とした。越部村は、紀州藩の馬借所が置かれた宿駅である。なお、理解の便のために橋本町の馬借の範囲についての橋本町の立場を示しておこう。「東ハ五條三ヶ村、西ハ紀州名手、南ハ高野山、北ハ河州境紀見峠迄、御朱印者勿論諸国御大名様方御用人馬相立申候、御主様江戸、勢州御往来御用之人馬之儀者、五條三ヶ村を打越、紀州御領分和州越部村迄道法五里之間附通し申候」(『橋本市史近世史料Ⅰ』六二五貢)。ただ、上述の中村番所の設置は、一方で吉野郡加名生谷村々や宇智郡野原村地域とも対立を生むことになるのは目に見えている。紀州藩の政策や五條馬借所が実施、運営されるまでは、彼らも自由に橋本・和歌山方面と往来していたのだから、「坂部郷并丹原・霊安寺・加名生谷迠古来ヨリ荷物附送り候義、橋本傳馬所之稼場」〔箱1-1〕と橋本町が主張するゆえんである。この馬借所の稼ぎ場の境界問題と前後して、紀州産以外の播州塩・阿波塩・讃岐塩など他国塩の五條への輸送に関わったトラブルが発生しているが、馬借所の問題というより橋本町での他国塩の措置如何が問題であるので別の場所で触れる。
 享保年間になると、社会的経済的な大きな変容の中で、筏の流下、筏床上の荷、吉野産の樽丸の輸送問題が発生する。吉野川を流下する筏上荷を自由にしてしまえば、橋本町まで下る吉野川通船や馬借による輸送量が大きく減少することははっきりしている。五條側は、船でさえ橋本以下の下流に直通しができないものを、荷物を載せた筏の橋本より下流への直通しを認めるわけにはいかないとの立論で抵抗したが、訴訟の結果、享保二〇年(一七三五)に五條地域にとっては厳しい裁定が下される。
 以上でほぼ五條馬借所の特権そのものに関連した大きな根本的な問題の周辺地域との軋轢は終わったのではないかと思われる。ただ、経済格差の広がり、社会の変質、商品経済の拡大、農業生産力の増大などに伴う商品輸送ルートの開拓要望や特権を突き崩すべき欲求が浸透してくるのは避けがたい。