五條市教育委員会/中家文書調査報告書

中家文書調査報告書

第三章 解説

第二節 五條村

第五項 町並み

 〔箱3-339〕「五條村麁絵図」(五條市指定文化財「五條古絵図」)には、西口町・南之町・中之町・北之町・辰巳町・東浄の六町の町名が道路上に記述されている。どちらかといえばこれは五條村絵図というより五條町絵図であって、町場以外の田・畑・池などの景観は描かれていない。この嘉永二年(一八四九)の絵図については、『五條―町並調査の記録―』(奈良国立文化財研究所)に既に分析がある。
 全戸数は四三四戸で、そのうちの六九戸が持家層、残り三六五戸が借家層である。持家層六九戸のうち二九戸で貸家二七三戸を所有しているという。「西口町から中之町を通り、北之町にいたる街道筋と、御霊神社御旅所から南下して鳥居口にいたる南之町の街道筋に面した家は、持家層」がとくに多いなど特徴点が指摘されている。これらは伊勢(紀州)街道や西熊野街道沿いにあって、各方面との結節点であり物流の中継点であることを示している。〔箱1-49〕の天保一三年(一八四二)六月二五日の項の追記に以下のような既述がある。「右被仰渡候趣、同日六町其外東浄迄も月行司呼付申渡置候、但し南之町御セ屋庄右衛門、西口町槙野屋仁兵衛 中之町住川屋治兵衛、北之町紙屋又市店又七、辰巳町紀伊国屋いそ、下馬町御勢屋徳三郎、東浄御勢屋喜兵衛」。これによれば、南之町・西口町・中之町・北之町・辰巳町・下馬町には町と書き添えられるが、東浄は月行司を呼ぶことについて「東浄迄も」と不思議がられ、かつ月行司の呼称にも町が添えられていない。この七町について少し触れておきたい(申し渡しに女性らしい月行司辰巳町紀伊国屋いそが含まれるのは興味深い)。
 「西口町月行事」は宝暦七年(一七五七)から明治四二年(一九〇九)まで書き継がれている。ここには、西口町を中心とした月行司や商人の動き、町法、触の写しなどと共に、北之町・下之町・中之町・南之町・東浄・下馬町・辰巳町との関係を窺わせる記述がしばしばある。ただ、「称念寺ニおゐて両役人衆四町寄合有之」「須恵村八幡拝所破損ニ付、此度建替仕度、神宮寺ニ而四町組頭寄合仕」「川普請の人足賃銭に付き、町中の四町共評議之上」「四町共表町筋見付へ壱町ニ壱所宛、弐石五斗入程之用水壱ッ并用心水籠弐拾、又まとい、ちやうちん壱ふり、又木綿三尺五寸弐幅のぼり地□ニ致し町ノ印白とリニ染付置申候」などとあるように、四町が五條町運営の中核をなしている。八幡社の建て替え、川普請人足賃銭、火災対策など町の重要案件について、「四町組頭寄合」「四町共評議」「四町共表町筋見付」とあって、西口町・南之町・中之町・北之町の四町が在郷町五條村の中心であったようだ。「先達而粉川屋六左衛門方ニテ月行司帳紛失致シ候処、夫ヨリ段々家内相尋候得共、(帳)面有所相知れ不申、夫ニ付町内一同御相談被成候処、右月行司帳紛失致候とて不相済事ニ候得ハ、此上ハ外三町月行司帳借受、先年ヨリ記録等相写し可申様相評定極り、夫故北之町、中之町、南之町右三町帳面かり受相写し申候、扨々無是非事ニ候得共、右之通ニ而町内一同御了簡被下候様御頼奉申上候」とも記されているように、四町は月行司帳を備えており、その記録が各町の存立、運営には不可欠であった様子が窺える。
 近世社会において、行政的には存在しない「東浄村」が当時の文書に時々現れる。町場の形成過程においては、四町より遅れて東浄地域が町場化したからではないか。辰巳町はその名の通り中心地域から南東の方角区域に町場化がすすんで、新たに名称が付けられたのではないか。南之町・中之町・北之町の三町とその西側面に家並が広がる地域を西口町とし、次いで辰巳町や東浄地域も「町」へと性格を変えたものと推測される。元禄一五年(一七〇二)の文書〔箱1-17〕には「一、十二月廿一日、きくや四郎兵衛申来候ハ、今日南町七左衛門方へ東家ヨリ太兵衛・甚五兵衛其外一両人ヨリ使ニ参」とあること、一冊文書〔箱1-18〕の中に載せられている享保七年(一七二二)一一月一日付の奈良奉行宛願書に「北ノ丁松屋久右衛門」とあること、一冊文書〔箱3-349〕の中にある享保一九年(一七三四)一二月付の奈良代官近山清右衛門宛言上書には「飯貝村下市村口役所ヨリ宇知郡五条村迄川筋道矩五里、此所西口町ニ喜兵衛と申材木屋御座候」とあることなどから、遅くとも元禄年間~享保年間には南之町、北之町や西口町などの四町が整っていたものと考えられる。行政的には五條村であるが、同じ文書中でも五條町と五條村とが意識的に差異化して使用されていると判断される場合がしばしば見られる。「宇知郡五条町中」、「宇知郡五条村・新町村町中」などと自己表現して奈良代官に願い状を提出しているのも参考になろう。
 なお、市日の開催について触れておく。文化一〇年(一八一三)の一紙文書〔箱3-337〕には「月六斎之市日」とあるが、『橋本市史』所載の享保七年(一七二二)一〇月付の抜け道争論返答書には「五條三ヶ村ヨリ申上候者、当村之儀ハ古来ヨリ毎月六斎之市場ニ而御座候」とあって、享保年間よりかなり以前から月ごとに六度の市がほぼ継続して催されていたようだ。
 次に五條町の歴史的な特性の変化について一言述べておく。近世の初期は五條二見藩の城下町として、吉野川の河川交通の条件を生かしつつ二見・五條・新町・須恵地域が再編成された。しかし、廃藩の措置に伴い、町場の都市性を変えることになった。河川交通の利用の制限の中、馬借所運営を軌道に乗せ、宿場町、商業の町として発展させた。寛政三年(一七九一)刊行の『大和名所図会』(秋山・竹原編著)に「五条里は宇智郡の駅にして、四方の旅客はここにゆききし、遠近の産物もここに交易して、朝市・夕市とて商家多く、郷の賑ひいはん方なし」と述べ、その賑わいの様子が描かれているのは周知の通りである。この上に更に、代官所=陣屋の設立によって陣屋町としての性格を加えることになった。馬借所運営主体三ヶ村がそのまま陣屋元村三ヶ村として特別な位置づけがなされたのである。掛屋・用達・郷宿・御用飛脚・馬借所(吉野川通船もその管理下)などが一定の範囲に集中して営まれ、幕末には五條町を中核とした地域はかなり高度な都市性を帯びていたと考えられるのである。