五條市教育委員会/中家文書調査報告書

中家文書調査報告書

第三章 解説

第二節 五條村

第四項 生業

 享保二一年(一七三六)『大和志』(並河誠所ら撰)には、五條村の特産物として焔硝製造が挙げられていて、享保年間頃の五條地域は火薬製造産地として世に知られていた。中家の現存文書からは、火薬に限らず米穀・綿作・油・酒造など生産活動を窺うに足る具体的な史料を見いだすことが出来なかったが、「當村之儀ハ百姓作間ニ商内相兼渡世」〔箱1-49〕の情況を少しく見ておきたい。文久年間の絞油業者は、五條村で宗八・佐太郎ら七名、新町村四名、須恵村三名、野原村三名を数えることができる(『四〇〇年記念誌』)。慶応二年(一八六六)の史料では、米商人は五條村上田屋利兵衛ら九名、新町村火打野屋茂兵衛ら五名、須恵村米屋藤右衛門ら四名がおり、酒造人はそれぞれ三名、三名、二名が営業している。『五條市史』によれば、延享三年(一七四六)において、造酒屋四軒・油粕干鰯商人二一軒・絞油屋三軒、「大工・木挽・鍛冶・桶屋・織屋」の職人などが見られる。油粕・干鰯商人の数が多いのは、五條村が宇智郡や吉野郡の村々への流通センターの機能を果たしたからであろう。また、天保一四年(一八四三)三月の文書「和州犬飼向寄大工」によれば、宇智郡犬飼組西方における大工職人六二人、弟子一六人のうち、五條村の大工職人だけで一五人と弟子三人を数えることができる(米田家文書)。同じく米田家文書の「和州犬飼向寄大工人別御請書」によると、代官辻弥五左衛門支配の正徳三年(一七一三)の調査に基づくとした上、五條村の大工高を一五石としている(『安田家文書調査報告書』も参照)。『五條市史』引用の中家文書「諸商人並諸職人名前書上帳」(明治元年)が今回の調査では見当たらなかったが、それによると五條村だけで質屋・三商売業者が一八二人もあって、これら小口を扱う金融業者が極端に多い。その他では諸品仲買渡世、綿業関連、呉服・太物・唐物渡世なども多く営まれている。その職業延べ人数は八二三人あり、戸数を勘案すれば兼業者が相当に含まれていることを示している。町場の渡世は複数品の商業・工業の営みをするのが普通だったのだろう。
 寛政六年(一七九四)の「馬借所出入被仰渡書付写」(柏田家文書)には、五條村に家軒数四〇〇軒があると述べられているが、四三四戸を数える嘉永二年(一八四九)の「五條村麁絵図」の時代まで約半世紀、三〇軒余増加したとみなせようか。算え方にもよるだろうが、明治初期の『大和国町村誌集』では五七二戸あって、そのうち農業三二戸、商業三七〇戸、残りは農商工兼業である。『大和国町村誌集』から一部抜き出して一覧表を作成した。平成の市町村合併以前の旧五條市と宇智郡とは一部を除いてほぼ同じ範囲である。宇智郡の人口が一万九千人余があり、五條村・野原村・須恵村の戸数が特に多い。
 終わりに五條村の立地条件の主要点を挙げておく。伊勢街道(紀州街道)・西熊野街道・河南道・吉野川を利用することによって、紀州橋本町~和歌山方面や下市をはじめとした吉野郡各地域へ通じていること。和州の国中方面へと通じている街道は、高取城下から重阪峠を越えて三在で伊勢街道と合流する中街道、高田・御所方面から風森峠を越えて住川を経てすぐ三在で伊勢街道と合流する下街道、金剛山越えで泉州堺や大坂への街道なども宇智郡・吉野郡を越えた広い世界へと通じている。これら街道は高野山参詣、吉野参詣、修験道などとの密接な関わりがあった。
【五條地域戸数・人数:明治初期】
地域戸数人数平均地域戸数人数平均
五條57221843.82野原43016233.77
須恵3049193.02霊安寺1808124.51
新町1906953.661708154.79
二見2078974.33宇智郡4295187474.37
備考○典拠:『大和国町村誌集』(『新修五條市史』所収) ○平均とは一戸当たりの人数 ○地域の広狭に関係なく選ぶ。