五條市教育委員会/中家文書調査報告書

中家文書調査報告書

第三章 解説

第二節 五條村

第二項 領主の推移

 五條二見藩が廃藩となって以後、五條村など旧藩領は幕府領となり、代官宗岡弥右衛門の支配を受けた。次いで元和五年(一六一九)に郡山藩(藩主松平忠明)領となるが、延宝七年(一六七九)には再び幕府領とされ幕末まで続く。延宝七年(一六七九)~寛保元年(一七四一)の間は、辻弥五左衛門・会田伊右衛門・近山清右衛門ら奈良(南都)代官の管轄下にあった。寛保元年(一七四一)に至って、五條村や須恵村は、幕府領のまま伊勢国の藤堂藩預所になるが、藤堂藩預所の後は、代官支配が大坂代官・京都代官・大津代官などへと目まぐるしく変わる。他方、新町村は織田芝村藩預所扱いとなり、旧五條二見藩領は、二つの預所支配に分かれた。その間の事情を新町村側からは、次のように述べられている。「五条、集會両村、寛保元酉年夏比より藤堂様御預り也、此藤堂和泉守様御預り所之次ハ大坂御代官ニ相替り候、次ハ京都西御役所角倉与市様、小堀数馬様御代官也、次ハ大津石原清左衛門様ニ御預り也、明和七寅年七月の比より両御役所江替り可申事也、次ハ大坂谷町大屋四郎兵衛様御預り也、此時分諸方ニ家こぼち有之、大騒動也、次ハ京都二條内藤重三郎様御預り也」云々(柏田家文書「新町由緒記」)。天明九年(一七八九)八月に大坂谷町代官大屋四郎兵衛から京都代官内藤重三郎へ郷村引き渡しが行われた事実などは、他の文献で確認できるが、この「新町由緒記」の記述がすべて正しいかどうかは未考である。ちなみに、終わりの方にある「此時分諸方ニ家こぼち」は、天明七年(一七八七)の打ちこわしの事態を指している。この内藤重三郎代官支配から五條初代代官河尻甚五郎へ郷村が渡されて以後は、特別な場合や引き継ぎの一時期を除き、原則的には幕末まで五條代官の支配が行われた。
 戊辰戦争の渦中の慶応四年(一八六六)一月六日に、鷲尾侍従高野山隊に代官所が接収されて、その支配は終わる。同年一月二一日烏丸光徳少将が奈良奉行所を接収し、大和鎮台をおいた。ここに大和国の近世は終わった。二月一日には大和国鎮撫総督府と改称し、旧幕領地の管理を高取藩、芝村藩に命ずる。大和国鎮撫総督府は、奈良県→奈良府→奈良県としばしば名称を変えるが、一方では、明治三年(一八七〇)二月二七日に五條県が設けられ、翌明治四年(一八七一)一一月二二日に奈良県に編入されるまで、五條県が存続した。また、明治一一年(一八七八)成立の郡区町村編成法により近代の宇智郡が発足する。五條村は、明治二二年(一八八九)成立の市制町村制により、五條・大島・須恵・新町・二見の五村が合併して五條町が成立すると同時に消滅した。