五條市教育委員会/中家文書調査報告書

中家文書調査報告書

第三章 解説

第二節 五條村

第一項 五條村の成立

 須恵庄には、すでに応永一六年(一四〇九)に市場が成立している(『五條市史』)。五條村の町並みは、中世に起源をもつ御霊神社御旅所と小広場を核として広がる町場にその起源が推定されている(『五條・新町』独立行政法人奈良文化財研究所:二〇〇六年)。近世の五條村絵図に吉野川に面した場所に鳥居、「小広場」付近に高札場が描かれるのは、中世の歴史的伝統を踏まえて理解すべきであろう。これらを前史として、慶長一三年(一六〇八)に松倉豊後守重政が入部し、五條二見藩が創設された。二見村領と五條村領から一部分ずつ分割することによって新町区域を別に独立させ、五條・須恵・二見・新町地域を中核とする町場が形成された。ここに五條地域の近世が始まると言ってよい。しかし、五條二見藩は大坂夏の陣が終結すると廃藩の処置が採られ、僅か八年でその役割を終えた。慶長郷帳では「すへ五条」と記され、五條村と須恵村は未分離のままで村高が四四五石余とされている。寛永郷帳段階になると両村は分離し、五條村の村高は三〇八.九六一石、須恵村の村高が一三六.五九石となる。一方、城下町の一部として一旦は創設された新町ではあるが、廃藩に伴い新町は、行政上新町村となる道をたどり、町場としての性格を変えた。郡山藩の増高無地政策の結果、五條村は三八一.二四四石余とみなされて、以後は他の三村と同様幕末まで基本的な変更はない。五條伝馬所の成立の経緯や三ヶ村にとっての意義や重要性については別に述べる。
 次いで寛政七年(一七九五)に代官所が設立されたことは、地域の転機をなした。代官や時期によって相違するが、宇智郡や吉野郡を中心として、その周辺地域の大和国の幕領五~七万石を管轄した。近世の地域社会の生活の基盤をなす伝馬所の運営主体や大和国の天領七万石余を統括する五條代官所の陣屋元村は、五條村・須恵村・新町村の三ヶ村であった。新町村・須恵村・五條村と接する二見村や吉野川を挟んでこれら村々の対岸に位置する野原村は、在郷町として発展して共通の利害関係を有する地域社会を形成していった。しかし、吉野川が貫流することは、一方で交通上・商品流通上などで利害が競合する条件を生み出した。吉野川の河南地域においては、河北側の五條村などが幕領村であったことに対して、丹原村、霊安寺村、野原村、御山村などは根来氏・畠山氏・船越氏などの支配する旗本領が多いことも影響した。近世社会は、身分・村々・職種において、それぞれがいわば特権を主張し、維持することに大きな比重が置かれた時代である。「古来の通」が根拠とされたり、「新規の企て」として批判の対象になるのも特権の維持の主張と不可分に結びついている。五條村を軸とした新町村・須恵村三ヶ村による馬借所の運営、新町村の諸役免除の特権、陣屋(代官所)元村の特別な位置づけなどは欠かせない事例である。以下、中家以外の諸史料を援用して、近世の五條村について上記に触れた以外、いささかなりとも関説しておきたい。
【五條村・須恵村・新町村・二見村の村高推移】
村名慶長郷帳寛永郷帳大和鑑①元禄郷帳
領主石高(石)領主石高(石)領主石高(石)領主石高(石)
五條村松倉重政445.55本多内記308.961本多内記308.961代官381.244
須恵村本多内記136.59本多内記136.59代官209.153
新町村②(本多内記)(19.639)(本多内記)(19.639)代官24.55
二見村松倉重政751.161本多内記751.162本多内記751.162代官919.77
備考○①は表野家文書で1640年代の史料と推定される。 ○②新町は、五條村分3.965石と二見村分15.674石分を割いて、高が19.639石分の町場として慶長年間に創設された。その後五條二見藩の廃止に伴い、新町は五條村・二見村に一旦元のように吸収される形になったと思われるが、新町は再び延宝8年頃に自立したと考られる。まもなく増高無地分が加えられ24.55石となった。同じように五條村はほぼ(308.961-3.965)×1.25≒381.244、二見村は(751.162-15.674)×1.25≒919.77とされたのだろう。 ○『四〇〇年記念誌』を修正 ○須恵村の元禄郷帳209.153は誤りではないか。18世紀半ばの「大和国高附帳」(市立五條図書館蔵)や天保郷帳はともに170.739石であって計算上(136.59×1.25)とも合致する。