五條市教育委員会/中家文書調査報告書

中家文書調査報告書

第三章 解説

第一節 中家と中家文書

第四項 中家文書の特色

 中家文書の特色の一つは、文書数六百点余のうち、吉野産の木材に課税された口役銀制度に関わる文書が二六〇点余を占めていることである。〔箱3-1〕~〔箱3-334〕の文書は、同じ場所に、帯封で一括にされていた文書群、ひろげた状態で一括して纏めて置いてあった一紙文書群などから成る。三三〇余点の文書は、材木の口役銀関係・代官所の貸付政策関係・夫食関係にほぼ区分されるが、発給人が五條代官辻甚太郎の吏員(手付等)であること、宛所が中屋(掛屋)源兵衛であることなど共通した様式を持っている。そのうちの二六〇点余が口役銀に関する文書である。
 口役銀制度の公儀取り立てによる新しい仕法替えが実施されるとの通達が、文化六年(一八〇九)に五條代官所から出されたことに伴って、掛屋がその重要な任務を果たすことになった。吉野郡の川上・黒滝の両郷による徴収から、新しく公儀取り立てに改められたために、代官所支配の中で特に重要な一翼を担う掛屋がその務めを担うことになったのである。中家の口役銀関係文書は、仕法替えが開始されてまもない初期の文化一三年(一八一六)~文政五年(一八二二)の文書群である。
 馬借所関連文書が相当数多年度にわたって現存すること、馬借所が地域社会の発展に不可欠な存在であったことなどを考慮すると、馬借所に係る貴重な文書群の存在を第二の特色として挙げることが相応しいだろう。多くのケースの訴訟の相手方である紀州橋本町地域の史料と突き合わせることが一部可能であり、一方に片寄らずに双方の立場の主張に耳を傾けることが出来る。当時の五條村・須恵村・新町村の三ヶ村は、地域社会の規格の維持や存亡に関わると自覚して訴訟に臨んでいることも重要である。裁許状は勿論、奉行所や代官所に提出した願書、相手方や公廷での返答書、奈良や江戸へ出廷した折の日記風の覚書、江戸からの書簡集など様々な種類の訴訟活動の記録が作成され伝えられた。これらは費用捻出の必要性や村人への説明責任からだけの理由で作成され伝来された訳ではなく、またそれらは「新規の物巧ミ」によって「勝手」に得た特権ではなく、主体的な住民の行動と公儀の裁許という由緒のある「規格」に基づいているのだということを、将来に渉って公的・社会的に証明する必要が課せられていたからであろう。
 第三点目。庄屋、用達、掛屋を兼務したり、勤続していたことの反映であるが、一庄屋文書に収まらない良質の文書が結構含まれていることである。「大坂・五條代官支配心得」、絵図類、書状、御用留、貸付金関係文書、天誅組討伐関係文書などは、用達や掛屋への就任抜きには理解が難しい。また、これらは陣屋元村である五條村の特別な立場とも関わろう。代官所行政全般にわたって、管内と村々を仲介する用達や公金業務を中心として取り扱う掛屋に関連する文書が含まれることが特色である。
 他方、五條村の文書が、ほとんど見られない点についても指摘しておく必要がある。検地帳・村明細帳・反別帳・五人組帳・村小入用帳・年貢割賦帳など村政の基本的文書が見当たらないのである。中家(中屋源兵衛)が、一時的ではなく庄屋役を務めていることが明白であるにもかかわらず、伝来されていない。また、一次史料としての古文書では、元禄一六年(一七〇三)二月付の辻弥五左衛門代官による裁許状〔箱2-18〕が最古で、しかも享保年間以前のものはほとんど見当たらない。この原因の一つとして、ここでは五條町のいわゆる元禄の大火について、若干の考察を加えておきたい。
 元禄一六年(一七〇三)の五條村の大火の詳細は詳らかではない。御霊神社の社額に「元禄一六癸未歳、因火災五條町悉焼」、享保八年(一七二三)の〔箱1-14〕に「五条之義、弐拾壱年以前出火致、町中焼失仕候」(『五條市史』)とある以外にその記録は余り残されていない。中家文書においても、享保七年~八年(一七二二~一七二三)の馬借所出入り系統の文書に記されているだけである。享保七年(一七二二)の文書に「廿年ほと以前、五条村庄屋家焼失之節、右御書下等焼失仕候」〔箱1-5〕とあるのを嚆矢として、享保八年(一七二三)の文書に「五条村之義、廿壱年以前町中不残焼失仕候、則帳面焼失」〔箱1-7・14〕などの記述があるが、これら以外では同じ訴訟系列文書の中に「町中類焼仕候而帳面共焼失、其上商人之義ニ御座候得者、近年一両年分残置、古キ帳面共ハ反古ニ仕候様成義」〔箱3-351〕、「町中焼失仕候節、帳面焼失仕、又ハ商人帳面ニ御座候得ハ、弐三年残置、反古ニ仕候様成義ニ而悉ク者無御座候」〔箱3-352〕との文言がある程度である。しかし、「町中不残焼失」「帳面焼失」「庄屋家焼失」「御書下等焼失」といった表現は、単に書類の裁判提出上における思惑からのみ作成された文言とは到底思えない。「商人之義、古キ帳面共ハ反古ニ仕」「商人帳面ニ御座候得ハ、弐三年残置、反古ニ仕」るという主張も、当時の商人の慣行であって根本的な虚偽や文飾はないであろう。
 一方、元禄の大火の前年にあたる元禄一五年(一七〇二)一一月二七日付の文書〔箱1-17〕から、この前後の五條村の庄屋・年寄は安左衛門・半四郎・三郎右衛門であったと判断される。宝永三年(一七〇六)も安左衛門が庄屋である。他方、奈良県指定文化財である中家は大火の翌年の建築である。大火の時の「五条村庄屋家焼失」とあるこの庄屋家はどこであったのか現時点での確定は難しいが、当時の庄屋家がこの大火で焼失し、かつ文書類も多く焼失したのは間違いあるまい。庄屋役を近世中期に務めた堤家が幕末まで同じ場所にあったとすれば、堤家(堤孝亭邸)の所在場所は高札場のすぐ近くであることも留意しておきたい(「五條村麁絵図」など)。
 ところで、〔箱1〕~〔箱4〕以外にも貴重な歴史的史料が中家には所蔵されている。高札が四点、絵図が二点である。四点の高札のうち二点は、『五條市史』などで知られている伝馬所関係の寛永一六年の高札と延宝九年の高札である。他の二点の高札は共に日付が正徳元年(一七一一)五月の切支丹禁制札と火付禁制札である。絵図二点のうちの「馬借通路絵図」については第二節の六項「絵図」において概説を加えた。
 なお補足すると、天理大学附属図書館には近世の五條村に関する文書が多数所蔵されている。中家文書は勿論のこと、五條村や地域社会の歴史的理解のために、この文書の考察が不可欠である。今回、この文書については未調査のままである。喫緊の課題である。また『五條市史』などに引用された中家文書のかなりの文書が、今回確認できなかったことも付け加えておく。