五條市教育委員会/中家文書調査報告書

中家文書調査報告書

第三章 解説

第一節 中家と中家文書

第三項 「世為駅之富族」

 森田節斎の『中賢女伝』によれば、中家は「世為駅之富族」、つまり代々五條の宿駅にあって財力豊かな富商の家柄であるという(田村吉永編『森田節斎全集』)。以下この点について検証する。〔箱3-350〕〔阿波・日方・雑賀塩取引覚〕は年号が不明であるが、当時の五條商人の塩取引の実態の一部分を示していて貴重である。そこに収録されている一文書は、『橋本市史近世史料Ⅰ』四九二貢の元禄一一年(一六九八)七月二日付「津ま村惣右衛門」宛文書と同じである。この「阿波・日方・雑賀塩取引覚」文書に中屋源兵衛の名が現れ、元禄年中に紀州日方塩や種粕の取り引き商人として活動している様子が示されている。〔箱1-6〕に収録されている宝永六年(一七〇九)一一月朔日付けの「取替申出入済証文」では、三名の「五條村中惣代」の一人として源兵衛が署名している(これと同じ内容の文書も『橋本市史近世史料Ⅰ』に載せられていて庄屋は安左衛門)。〔箱1〕には享保七年(一七二二)から享保九年(一七二四)にかけて、江戸の評定所にまで持ち込まれた訴訟関連文書が納められているが、江戸出廷五條側代表団七名の一人が源兵衛である。説明は省くが、この訴訟関係の一連の文書から推して、惣代として署名しているこの源兵衛は、中屋源兵衛のことであると推定される。すなわち、後述するように当時の五條村の庄屋は安左衛門・安助であって、中屋源兵衛は庄屋などの村役人の立場というより、五條村惣代の一人として行動する富商の人物であるらしい。例えば『吉野林業史料集成(九)』(筑波大学農林系:赤羽武編)に収載の正徳四年(一七一四)八月二三日付の栗山家文書「屋敷地境界につき手形一札」では、中屋源兵衛が証人の立場で署名している。あるいは正徳六年(一七一六)三月のことであるが、幕府の巡見使一行が五條村で宿泊したおり、「五條中屋源兵衛 井戸平左衛門様御宿」「助四郎 斉藤喜六郎様御宿」「安左衛門 小山与右衛門様御宿」(北山家文書)とあって、中家が一行の中心人物勘定役井戸平左衛門の宿とされているのである。新しく建てられてまだ十数年目で且つ格式の高い中家だからこそであろう(後に石見大森代官となる井戸平左衛門正明については村上直『江戸幕府の代官群像』に詳しい)。つまり、元禄年間から享保年間にかけての中屋源兵衛は、格式や信用のある有力な商人の惣代として訴訟などに関わり、近世における五條地域の商業活動の展開に不可欠である馬借所の維持発展に尽力した存在であった。「江戸時代中期の上位の町屋として、防火対策や構造の堅固が周到に工夫されており建具等細部に亘って、綿密な用意がされている」などとして奈良県の文化財に指定されている中家住宅は、「町中不残焼失」〔箱1-7〕、「五条村庄屋家焼失」〔箱1-5〕と表される元禄一六年(一七〇三)の五條町の大火の翌年、宝永元年(一七〇四)に建てられている。中家住宅は有力商人の経済力や高い格式を示しているといえよう。
 次に、宝暦六年(一七五六)六月付の巻子装の文書〔箱2-20〕について少し触れておきたい。詳細は不明であるが、宝暦五年(一七五五)六月に和歌山湊での塩取り引きの件で紀州藩によって厳しい命令が下ったが、庶民は如何とも出来なかったとして「有厳命庶民或は服し、或は不服、公命之厳重これを如何ともすへき事なし」と述べている。この状況下において五條・須恵・新町の三村は相談しその結果、「若此事置而不挙、則当所の規格を失ひ且は後生の痛患也」と意を決して「川﨑氏・中氏・保田氏・中野氏・堤氏都而五人、志を一にして」「邪寒暑雨を不厭、山河を跋渉して労苦を不省、当地規格の滅ん事を痛み、後毘の為に慮」って紀州和歌山城下まで出向いて歎願している。幕府領の五條村・須恵村の預り藩主藤堂和泉守の役所(添上郡古市)、新町村の預り藩主織田丹後守の役所(式上郡芝村)へ赴いて「御添簡を頂戴」し、別に訴書一通を認め「芳川(吉野川)に艤」して南紀和歌山の「太守の廳前」に至って「右御添簡・訴書」を奉呈した。翌年五月に再び「南紀の公廷」に至り、数旬を経てようやく「期望を遂」げて「皆欣々然として」帰路に就いた。「忠誠にして一毫の私心」がある訳で無く、ただ「後来孫子可勤の事」のためにのみこの一連の始末を草して各一通を家に遣すのだと記し、堤定賢が押印したものを中義将に差し出す書式を採っている。堤家、中家の地域の規格(特権)を維持し守ろうとする姿勢、地域社会を担う伝統あるリーダーとしての強い意志や誇りがよく窺える。「世為駅之富族」であるという文言は、森田節斎流のただの文飾ではなかった。寛政八年(一七九六)の「御用記」(五條市立図書館蔵)七月条によれば、五條村百姓源兵衛が大金銀六貫目の返納を五條代官所に求めている。代官所が設立されてまもなく、中屋源兵衛はその敷地田畑の所有者への作徳料として、銀六貫目の金融運営の利息をあてるよう代官所に献策を行っていたのである。源兵衛の亡父源助が存生中、陣屋の敷地御用としてこの資金活用を願っていたから上納したのだという。『牧民金鑑』(刀江書院)には、この件に関連した幕府の勘定所からの五條代官所宛ての八月九日付返答書が載せられている(『四〇〇年記念誌』)。後述するように、安永六年(一七七七)生まれの中いとは、「父(源兵衛惟舜)成長豪華、奢侈過度、産大落、加之母蚤没」という家の厳しい状況下、必死に家事の経営に努めたために享和三年(一八〇三)に代官池田仙九郎から表彰されている。しかし、寛政七年(一七九五)に五條代官所が設置された当時、中屋源兵衛は掛屋に任命されたり、銀六貫目を上納したりすることが可能な資産家であった。また文化二年(一八〇五)五月八日のことであるが、前紀州藩主太真公が五條村を通過する際に「当所御小休ニ而御本陣中屋源兵衛へ被為入」れた家である(「西口町月行事」)。幕末の嘉永二年(一八四九)「五條村麁絵図」〔箱3-339〕においても、中屋源兵衛は貸家数二三軒を所持する大店である。一方、慶応二年(一八六六)の五條村の「油稼人」「醤油造稼人」「酒造稼人」「米商人」「塩商内」「柴商人」二二人には中屋源兵衛の名前は見あたらない(『四〇〇年記念誌』)。十八世紀末頃からは貸家業と用達、掛屋の仕事が家業のウエイトの過半を占めていたのかもしれない。
【五條村村役人一覧】(No.1)
年次庄屋年寄百姓代典拠
元禄15年11/安左衛門①半四郎・三郎右衛門箱1-17
宝永3年3/安左衛門柏田家
宝永6年11/安左衛門半四郎・七右衛門・甚佐衛門・太左衛門・藤右衛門箱1-6
橋本市史
正徳元年5/安左衛門藤右衛門柏田家
正徳6年3/安左衛門太左衛門柏田家
正徳6年6/安左衛門半四郎柏田家
享保2年7/安助藤右衛門柏田家
享保4年5/安助与三五郎・太左衛門・半四郎・四郎兵衛・藤右衛門(平七)②箱1-1
箱3-348
享保6年2/安助藤右衛門柏田家
享保7年3/安助藤右衛門柏田家
享保7年10/安助四郎兵衛箱1-60,63
享保8年11/安助箱1-15
享保9年3/安助箱1-15
享保12年12/安助藤右衛門・半四郎・平七・四郎兵衛史科集成
享保20年3/安助四郎兵衛箱3-349
延享2年5/安助柏田家
宝暦10年7/九左衛門藤治
宝暦12年5/九左衛門半四郎箱3-346
明和5年4/九左衛門半四郎箱3-346
安永5年11/安左衛門半四郎・藤右衛門
天明8年6/安左衛門藤右衛門『記八』
天明9年9/安左衛門藤右衛門藤四郎『記九』
寛政6年5/安助・喜左衛門・(加役年寄兵右衛門・武右衛門)柏田家
寛政7年8/安助・喜左衛門・太右衛門与兵衛柏田家
寛政8年11喜左衛門・安助与兵衛『記八』
寛政9年12/忠左衛門善六・又市『記十』
寛政10年3/安助・喜左衛門仁兵衛『記十』
寛政10年11/安助・喜左衛門『記十』
享和元年2/年番庄屋安助喜左衛門『記元』
享和元年7/(安助)喜左衛門藤九郎『記元』
享和元年8/年番庄屋宗八郎喜左衛門『記元』
享和3年7/宗八郎喜左衛門与兵衛箱2-5
文化元年12/宗八花平史料集成
文化4年3/宗八東阿田文書
文化7年11/宗八西口町月行事
文化10年6/宗八花平・加役年奇利兵衛・源兵衛・藤助・東兵衛・三郎兵衛・九兵衛与兵衛箱3-337
文化13年12/花平柏田家
文化14年1/利兵衛柏田家
文政元年1/花平柏田家
文政2年2/九平衛柏田家
文政4年/東兵衛・花平柏田家
文政6年1/東兵衛・花平柏田家
文政7年1/東兵衛・花平柏田家
文政8年1/東兵衛・花平柏田家
文政9年1/東兵衛・花平柏田家
文政10年1/東兵衛・花平柏田家
文政11年1/東兵衛・花平柏田家
文政12年1/東兵衛・花平柏田家

【五條村村役人一覧】(No. 2)
年次庄屋年寄百姓代典拠
天保2年1/花平柏田家
天保3年6/東兵衛・花平史料集成
天保3年10/久右衛門柏田家
天保4年2/久右衛門柏田家
天保5年1/久右衛門柏田家
天保6年2/久右衛門柏田家
天保7年1/久右衛門柏田家
天保9年1/久右衛門柏田家
天保10年12/権兵衛柏田家
天保11年1/久右衛門柏田家
天保12年7/仮庄屋久右衛門・権兵衛仮年寄利兵衛・九右衛門仮百姓代与兵衛箱1-49
天保12年7/源兵衛利兵衛治郎兵衛箱1-49
天保13年12/源兵衛利兵衛治郎兵衛箱1-49
天保14年2/源兵衛利兵衛箱1-48
天保14年7/源兵衛(年寄利兵衛代兼源兵衛)冶郎兵衛箱1-48
弘化元年10/源兵衛利兵衛冶郎兵衛箱1-51
弘化2年10/源兵衛利兵衛治郎兵衛箱1-51
弘化3年1/源兵衛利兵衛冶郎兵衛箱1-51
嘉永元年10/源兵衛利兵衛冶郎兵衛箱1-24
嘉永2年8/源兵衛利兵衛冶郎兵衛箱3-339
嘉永3年7/源兵衛利兵衛冶郎兵衛箱1-25
嘉永4年1/源兵衛利兵衛冶郎兵衛箱1-25
嘉永5年閏2/源兵衛利兵衛→(入札)幾蔵 治郎兵衛
→(依頼)与兵衛
史料集成
嘉水6年5/源兵衛史料集成
嘉水7年6/源兵衛史料集成
安政6年12/源兵衛岩蔵箱3-354
文久元年源兵衛柏田家
文久2年源兵衛谷p497
文久2年11/源兵衛岩蔵与兵衛箱3-340
文久3年9/源兵衛箱3-409
文久3年11/源兵衛岩蔵与兵衛箱3-341
慶応2年6/源兵衛岩蔵・加役年寄宗八与兵衛柏田家
慶応2年11/源兵衛岩蔵与兵衛箱3-342
慶応4年8/源兵衛宗八善兵衛柏田家
明治2年庄屋見習岩太郎箱1-27
明治3年2/庄屋見習岩太郎宗八箱1-27
備考○典拠:例えば『記八』はその年の8年の御用記を示す。寛政9年12月のみ翌年の寛政10年の御用記を使用。以下同様。 ○天明8、9両年の御用記は奈良県立図書情報館蔵、寛政8、9両年と享和元年の御用記は五條市立図書館蔵。 ○柏田家=柏田家文書、史料集成=吉野林業史料集成、箱とあるのは中家文書、※は「遊行上人御越覚書」を指すが、複写された文書のみあって出所が不明瞭でやや問題を残す。谷とあるのは谷彌兵衛『近世吉野林業史』、市史は『五條市史』。 ○①は前後から判断した。 ○②の年寄平匕は〔箱1-1〕と〔箱3-348〕では相違し、前者にのみ出る。 ○安助は「堤安助」。 ○文化13年から天保2年の期間、庄屋役か置かれたかどうかは不明。源兵衛がこの前後掛屋を務めていたことは箱3の文書ではっきりしている。 ○〔箱1-49〕の天保13年4月18日付の文書は、天保5年~天保9年の期間、久右衛門が庄屋であったことを裏付けている。