五條市教育委員会/中家文書調査報告書

中家文書調査報告書

第三章 解説

第一節 中家と中家文書

第一項 中家と庄屋

 近世において、中家の当主は代々中屋源兵衛を襲名してきている。その中屋源兵衛が和州宇智郡五條村の庄屋や五條代官所用達、掛屋を歴任してきたことは、諸史料から散発的とはいえ明白である。しかし、その就任時期などについて不明なことが多い。この際、中家文書以外からも援用して、ある程度の見通しをつけておきたい。最初に庄屋、次に掛屋と用達、最後に地域の名望家としての中家をとりあげる。
 五條村の村役人の変遷を管見の限りまとめて一覧表を作成した。掲載の文書には年代的なバラツキがあったり、一部省略されていたりしているため確定的なことは言えないが、大筋は把握できる。中屋源兵衛が庄屋役に就いていることがはっきりと確定できるのは、天保一二年(一八四一)七月からである。それ以前の五條村の庄屋役は、中屋源兵衛が庄屋に就任しなかったとはいえないが、宝永年間頃から寛政年間頃までの大半の期間は、安左衛門・安助(堤家)によって果たされてきた。寛政期から天保初期頃までは、五條村に庄屋役が置かれなかったり、一年交替の年番庄屋であったりしている。文政六年(一八二三)には、小前一同の入札によって「是迄通」り任命しないことが決められている(「西口町月行事」)。天保三年(一八三二)に至って新しい動きが見られ、入札を実施し代官所で開票している。天保一二年(一八四一)七月には再び入札後に代官所で開封し、それまでの二名の仮庄屋久右衛門・権兵衛らから多札を得た源兵衛等に役替えが行われた〔箱1-49〕。仮庄屋とはいえ、五條村に二名の庄屋がいる時期があった。開封に関しては、「先例之通御役所様ニ而」の開封を小前一同が「被仰付被下置度」いと願い上げた結果だという。「高持小前共銘々存寄之入札三袋」があって、「一之袋差除、二三之袋を以開封」して多札を得た庄屋・年寄・百姓代が一名ずつ決められている。この新布陣の村役人がもし「御年貢・諸役米銀」の収納に不都合を生じさせれば、「村方惣百姓ニ而引受弁納」すると代官所に約束している。惣百姓・村役人・領主の三者の関係が窺える文書である。一方、中屋源兵衛は用達との兼務であるらしい(後掲の【中屋源兵衛と掛屋・用達一覧】と【五條村村役人一覧】)。
 〔箱1-49〕の御用留が、この入札の開票の件から始められているのは、中屋源兵衛の庄屋役就任の責任感や自覚を示唆するものだと思える。幕末の庄屋中屋源兵衛の誕生である。嘉永五年(一八五二)閏二月にも村役人の入札が実施され、その結果、年寄役は交替したが、庄屋源兵衛は信任され継続することになった(百姓代は病気を理由に交替)。以後、少なくとも慶応四年(一八六八)八月までは、(安政年間は不明)中屋源兵衛が庄屋役を務めたようである。明治二年(一八六九)~同三年(一八七〇)には中岩太郎が庄屋見習に就いているなど、なお暫くは中家が五條村の庄屋役を果たしたものと思われる。百姓代の設置は、他の地域でも比較的遅く、村社会での小前層の意識や地位の高まりを映し出している。
 五條村の庄屋給銀については定かではないが、黒駒村・大津村・北山村・表野村・西阿田村・二見村・新町村など大抵の地域の村では用意されている。
 ところで、寛政七年(一七九五)に五條代官所が五條村に置かれたことから、五條・須恵・新町の陣屋元村三ヶ村は特別な扱いを受けている。その中でも五條村は特に重視された。翌寛政八年(一七九六)の正月五日、「御用始ニ付御酒御吸物被下」るから「麻上下着用」で出頭するようにと、郡中代二名・五條村年寄喜左衛門・安助、掛屋源兵衛・宗八、郡中代久兵衛悴久次郞らへ代官所の通達が郡中代から五條村へ届けられている。伝馬所や吉野川通船が、近世初期から五條三ヶ村の統制下で運営されてきたこととあいまって、代官所陣屋元村の五條村を中核とした地域社会の形成がより進展することになる。