宝塚市/たからづかデジタルミュージアム

たからづかデジタルミュージアム

「たからづかデジタルミュージアム」では、宝塚市に関する貴重な郷土資料などを、高精細のデジタル画像でご覧いただけます。

宝塚市では、”豊かな未来を創造し続けるまち”になることを目的に、宝塚市の魅力を高め、広く発信していく取組みを行っており、貴重な郷土資料のデジタル化による保存・継承、公開もその一つです。
“ときめく資料”をみつけて、宝塚市の魅力を発見していただけるような資料公開を目指しています

宝塚市ブランドメッセージロゴ

宝塚市は、兵庫県南東部の六甲山地と長尾山地の麓に位置する、南北に広がる文化・自然が豊かなまちです。 南部は南北を横断する武庫川の清流を中心とした市街地を形成しており、江戸時代には街道の宿場町として小浜地域が栄え、明治以降は武庫川周辺が温泉街として発展しました。現在は、全国的にも有名な宝塚歌劇団の宝塚大劇場や、手塚治虫記念館などがあり、「文化のまち」として知られています。 北部は西谷地区を中心とした自然が多く残る地域で、貴重な植物や昆虫も数多く生息し、ダリアや牡丹の栽培も有名です。

宝塚大橋からみた武庫川・阪急電車・宝塚大劇場

宝塚市北部 上佐曽利のダリア

「宝塚」という地名は「古墳」に由来するという説があります。
江戸時代中頃、大阪の地理研究家であった岡田溪志(おかだけいし)氏が記した「摂陽群談(せつようぐんだん)」という摂津国の地誌の中で、「旧米谷村に塚があり、この塚のもとで物を拾うと必ず幸せになったため、宝塚と呼ばれていた」とあり、これが地名の由来となったと考えられています。※由来については諸説あります。

古くは、縄文時代や弥生時代から人々の営みが続けられてきたことが、発掘調査によって判明しています。古墳時代には、市内に大小合わせて200基以上の古墳があったとされ、八角形の珍しい形をした「中山荘園古墳(なかやまそうえんこふん)」(国指定史跡)や、巨大な粘土槨(土に覆われた棺)が見つかった「長尾山古墳(ながおやまこふん)」(市指定史跡)など、全国的にも貴重な古墳が残っています。
仏教文化も早くからもたらされ、中山寺や清荒神清澄寺などをはじめとする古くからの寺院が残り、古来より参詣者が多く、巡礼街道沿いには100基以上の道標が残されています。

国指定史跡 中山荘園古墳

北部では、西谷地域が摂津多田源氏の支配下となり、仏教文化の影響を受けた様々な石造美術が作られました。
南部では、小浜地域が明応年間(15世紀末)に浄土真宗の寺院である毫摂寺を中心に「寺内町」として発展し、要塞機能を備えた町並みを形成していきます。

北部地域 波豆石造美術群

江戸時代以降には、巡礼街道や、有馬街道、西宮街道などが発達し、人々の往来や物資の輸送が盛んになりました。寺内町であった小浜地域は、大阪や京都と有馬・西宮を結ぶ交通の要衝(ようしょう)であったことから幕府の重視する拠点の一つとされ、宿場町として発展していきました。また、大工や左官、酒造りの町としても栄えました。

小浜宿の南門(西宮街道からの入口)

武庫川右岸で温泉が発見されことで、明治20年頃に「宝塚温泉」が開業し、「温泉街」として栄えていきます。その後、明治30年に阪鶴鉄道(現在のJR宝塚線)、明治43年に箕面有馬電気軌道(現在の阪急宝塚線)が敷設されたことにより、大阪や神戸から湯治客が多く訪れるようになりました。
明治44年には、武庫川左岸に箕面有馬電気軌道株式会社が経営する「宝塚新温泉」が開業し、大正3年に宝塚新温泉の施設内で「宝塚少女歌劇(現在の宝塚歌劇団)」が上演されると、その人気から全国的に有名になり、「歌劇と温泉のまち」として発展していきました。
雲雀丘・花屋敷地域周辺では、大正時代初期から大阪の産業活動が活発になった事で、住環境が悪化する都市部から環境の良い郊外への移住が注目されたことにより宅地開発が行われ、西洋建築の洋館や和洋折衷の住宅が建ち並ぶ景観が広がり、宝塚は「モダンなまち」として人々に知られていきました。

明治~大正時代の武庫川右岸から見た景色
対岸に見える建物は宝塚新温泉
(※現在の宝塚大劇場があるところ)

現在の武庫川右岸からみた宝塚市内の様子
対岸のオレンジ屋根の建物は宝塚大劇場