明石市立図書館/明石 郷土の記憶デジタル版

明石の農村

清水新田地区

伝承から見た水利

 清水新田には現在、7つのため池(明神池、小池、大沢池、寺山池、鳥生、新池、竜ケ池)があり、水路としては清水川の上流(神戸市西区岩岡町古郷の秋田地区の「白古瀬新橋」下流に取水口)から「高築水路」を通して水を明神池に引いている。また、明神池から小池などに水路が繋がっている。以前は「淡山疏水」にも加入し、水を分配して貰っていたが、疎水の末端の方で、水が来る量も少なく、「淡山疏水」からは以前に脱退している。
 また、東播用水には入っているが、それほどの水量は期待できない、とのことである。
高築水路の位置
高築水路の位置
清水新田のため池群
清水新田のため池群
清水新田のため池看板
清水新田のため池看板

 清水新田の小池の東にある大師堂(魚住町清水2575)の横に「龍泉軒梅甫道香居士霊」と刻まれた墓碑がある。「与次右衛門の墓」といわれており、昭和29年2月に明神下のマイリバカの前を流れる用水路から発見され、その墓石に新しく石の台座をつけて今の場所に建てた。墓には「元禄十二年卯二月五日」とあった。この地を開墾した江戸時代の初めころ、清水新田は水利の便が悪く村民が困っており、与次右衛門が私財を投じ、清水川の上流から「高築水路」を作った。このことは『魚住村誌』にも記されていて「与次右衛門は私財を全部投入したので家運が傾いて失踪してしまった。しかし、村民はその恩を忘れず失踪した日を命日(元禄12年卯2月5日)として墓碑の前で毎年供養し、この日を村の休日としている」とあり、地元では今もその恩を忘れず、毎年2月5日に「与次右衛門の墓」の前で、西福寺から僧侶を呼び、水利組合と大師講のメンバーで供養を行っている。

与次右衛門の墓石の供養塔


与次右衛門の命日の供養

 なお、『明石記』には、「池7・用水掘割2・往還道水抜橋5」と記録されている。このことから、用水掘割が2ということは用水掘割が2か所あったことになる。掘割とは林崎掘割から考えると、村の一番高い場所に掘られた、ため池に用水を引き入れる水路ではないかと考えられ。「高築水路」はまさにその通りで、途中、崖の上を掘った水路で、単なる農業水路・溝ではない。それでは、清水新田村にあった、もう一本の水路・掘割とはどこにあるのか?それは、「高築水路」より前に出来たのか?それとも後なのか?今回、初めて明確になった「高築水路」に続く、古い水路を更に調べてみる必要がある。
「高築水路」白古瀬橋下流の取水口
「高築水路」白古瀬橋下流の取水口
「高築水路」の取水口
「高築水路」の取水口
「秋田橋」横の「高築水路」
「秋田橋」横の「高築水路」
明石学園南の崖の上を流れる「高築水路」
明石学園南の崖の上を流れる「高築水路」
明石学園南側の「高築水路」降雨後は枯葉が溜る
明石学園南側の「高築水路」降雨後は枯葉が溜る
明神池の「高築水路」の最後
明神池の「高築水路」の最後
右の水門は東新池への水路口
明神池
明神池
竜ヶ池への水路
竜ヶ池への水路
大沢池
大沢池

水利に関しての言い伝えは多く、
○与次右衛門が引いた高築水路は清水川から水を引いてきたが、水を使わせて貰うのは、秋の彼岸から春の彼岸までの間で、その間に池に水を溜 めた。毎年、酒二升持って、清水地区に行き、頭を下げて、使わして貰った、とのことだ。
○ため池だけではダメなので、井戸を平成17年に大阪市西淀川の井戸掘り業者の「天竜」(倒産したらしい)に掘って貰った。以前は「徳永貿易・紡績」の工場内にあった井戸から汲み上げて染色の洗いに使って流したのを田んぼにひいていた。染色だったから、青や紫の色やったけれど、水が無いので使っていた。この会社が平成14年に無くなったので、井戸を掘った。
○「トメキチさん」(竹内年夫氏90歳の祖父)は水の管理のプロで、水路の管理役で、畔の水の流れを見て管理し、触ると怒られた。しかし、「お米が出来るのは、トメキチさんのお蔭と言っていた」。この話題になると、全員が懐かしいような、不思議と顔がほころんでいた。皆の共通の話題の人で、少し怖いけれど、村の誇りに思っている、と話ぶりから、感じました
○昔は「アルキさん」は葬式の時に鉦を叩いて葬式を知らせに回った。近隣地域では、下記の「アマイワイヤスミ」(雨祝休、田植えの後、雨が降って来たことを祝う)の時に、「アルキさん」が皆に伝える、広報担当をしていた地域もある。「アルキさん」は地域の中で、身体が弱く、協働作業が出来ない人や、後家の女性などが役割分担を受け持っていた。
○「エーツギ、ニシ(家次西)」田植えの後、雨が降って休みの時「アマイワイヤスミ」(雨祝休)の時は村の東端から、西の方へ順繰りに「エーツギ、ニシ」と言って伝え、順送りに広報して回った。
○田植え前の田んぼに水を入れる時、大体5月10日頃に、田んぼの水の取り入れ口の畔の芝を取って土を固め堰を作り、竹を割った先に広峰神社のお札を刺して、立てかけて、米作りの農作業の期間中、水に恵まれる様に祈った。
○雨が降らず田んぼに水が行き届かない時は、「三分植え」と言って、地域で取り決めて自主的に“減反政策”を行ったと聞いている。
○それ位水の無い時は「茶瓶に水を入れて稲に水をやって育てた」と言う話がある。