明石市立図書館/明石 郷土の記憶デジタル版

明石の農村

清水新田地区

年中行事と講、信仰について

月別日と行事
12月27日宗賢神社の鳥居の大注連縄作り。氏神講で順番に当番を3人決めて、公民館で作る。手伝えるものはみんな集まる。稲藁は当番が揃える。稲を作ってない人は、仲間の農家に声をかけて揃える。お神酒を頂き清めてから作る。作ったのは30日にかけ替え、一夜飾りにしない。古い大注連縄と、小祠などの飾りはトンドの火で燃やす。この時に、時間がある人は家のしめ飾りも作る。
29日「9・苦・クモチは搗かない」
30日28日か30日に餅は搗く。「昔は“オトシオケ”も作り供えていた家もあったが、ここ数十年していないのでは。高橋敦氏の記憶では「桶に鏡も一重ねと小餅12個を入れ、紙に願をかいて入れていたように思う」とのことでした。そして1月15日に下ろして食べる。“オトシオケ”は「ゴシャ・五社」「ナナシャ・七社」と呼ぶ神棚に供えた。氏神様、お伊勢様、出雲様、素戔嗚命、広峰様など様々で、家により違うらしいとのこと。広峰神社だけ別に祀る家もあった。
31日正月行事は各人の家で行う。宮参りには夜11時頃から行く
1月1日家族そろって雑煮で正月を祝う
2日元旦は火を使わないので、この日の午前中に初めて風呂に入る。
7日「七日粥」も各人の家でバラバラ
14日「トンド」夕方、お宮さんに注連縄などを積み上げ竹で囲み、燃やす各人も家の注連飾り等を持ってきて燃やし、灰を家の四方に撒いて家内安全、無病息災を願う。モチを焼いて食べる。昔は各人の家で燃やしていたが、燃やせなくなり、近年になり、宮で共同で燃やすようになった。こうする前に一度だけ広場でしたことがある。
15日氏神講の集まり(別紙参照)
18日「厄まいり」は旧暦の12月1日で昨年は18日。昔は毎年、18日だったが、最近はその前後の日曜日にしている。そうなってからは宮へのお参りは何故か減って行った。「一(41歳)で隠して、二(42歳)で餅ついて、三(43歳)でオヤク(オキャク)、四(44歳)で“ムシャアゲ”(蒸し上げ・赤飯を炊く」。本厄は家で餅やミカン、お金を撒いた。後厄にお強・オコワを炊いた。長いモノ、火箸等を嫁の里から送られた。60歳(還暦)も厄として祝った。厄まいりは「行きも帰りもモノを言っては勝ち負けが出来るから、話してはいけない」と言われ、黙っていた。
23日「二十三夜詣り」水利の役員13人が別紙の神の名を読み上げ村の息災を祈る

月別日と行事
2月節分などは各家でやる
5日「与次右衛門の墓の供養塔」の前で与次右衛門の命日に供養
3月3日「ヒナマツリ」は各家で
4月8日西福寺でアマ茶をいただいた。
5月5日氏神講 今は公民館で行う。公民館が出来た昭和53年以前はカシラの家で行ったので、食器を蔵から出したり、接待の料理を嫁さんが作ったりと大変だった。今は参加費で料理を取る。
8日「オヅキヨーカ」と言って西福寺で甘茶を貰った。「テントバナ」はかすかに記憶にはあるが、今はどこもしていない。
15日「大般若」は西福寺で行う。
第三日曜日 「ミゾソージ」(ミゾサライ)この頃、高築水路の溝掃除を皆で手分けして、取水口から明神池まで地域割りをして実施した。
6月田植えは「秋田小町」が6月始め、「ヒノヒカリ」が6月20日頃。
「サナブリしようか(田植え後の一斉の休日)」と言い「アマイワイヤスミ」は「エーツギ、ニシ」で地域に広報していった。
「ハゲッシヨ・半夏所」を終えてから田植えは“ハンサク・半作”タバコも「ハゲッシヨ」を終えてから植えるとハンサク”と言った。ハゲッショの前後にわたって田植えをしたら、ダメだと言っていた。
7月「一番草から三番草を取ったら、休みにしていた。
8月6日盆の準備を始め、共同墓地の掃除から始める
7日盆のはじまり
13~15日 「オボン」は各家で
23~24日 「地蔵盆」「ジゾーメグリ」は地蔵講の婦人が中心に行う。地蔵は大師堂に接している地蔵様で行う。初盆の家はこの地蔵を含め近隣7か所の地蔵巡りを三年間する。ただ、この地蔵の前で“鍬をかく仕草をする”と一年で済むと言ういわれがある。七か所は「西二見」「二見」「福里」「柳井」「長坂寺」「清水」「清水新田」
9月稲刈り。「秋田小町」は9月上旬に刈り取る。
10月「宗賢神社の秋祭り」は17,18両日。今は前後の日曜日。
「稲刈りが済んだら中尾の祭」と言っていた。
「ひのひかり」の稲刈りは10月上旬から中旬に刈る
11月「インノコ」初亥の日。箕に子どもを乗せ、一升升にぼた餅を入れて床の間に祀った。春のインノコは無い
12月1日「オトコツイタチ」と昔は言っていた。
旧暦の12/1の日が変わって「厄マイリ」をした。
12月の前半に溜池の水草を刈り、一か月ほど干して燃やした
※大体において、民俗行事はすたれつつある。また、実施される場合も本来の日ではなくて、前後の土日に決める。現在の村の運営は水利組合が第一の組織で、各講もその組織内で行われているようである。これは、この地域にとって、水利が第一と考えられ、村組織、村運営がされてきたことを示しているのではないか。