明石市立図書館/明石 郷土の記憶デジタル版

明石の農村

鳥羽地区

村の成立

 古鳥羽に関する記録は見当たらないが、村の位置については『慶長播磨国絵図』に従えば現在の野々池東堤防付近(現・神戸市西区玉津町出合付近)と推定される。この位置は、弥生時代前期から中世に至るまで、ほぼ途切れることなく継続した出合遺跡(図5)が重なり合う。明石川中流域の西岸、段丘上とその下の沖積地まで広がる広大な遺跡である。この遺跡で特に注目されるのが奈良時代後半の大型掘立柱建物群で、大型建物に接する一辺2.3mの方形の大型井戸からは、木簡・斎串(いぐし)・墨書土器・転用硯・緑釉陶器・瓦などが出土している。これらの遺物は官衙的要素を備える。明石郡衙跡と考えられている吉田南遺跡とわずか2kmの距離にあり、同時期でもあることから、郡衙に出仕する郡司級の人物の私邸ではないかと考えられている。

図5 出合遺跡の位置『明石の古代』

 ここで注意しておきたいのは、東へ約1kmにある宗賢神社(西区玉津町出合)の存在である。宗賢神社は明石周辺に10社ほど分布するが、その中で最も古い県指定文化財に指定されている16世紀後半の本殿が残されている。宗賢神社は明治元年までは王子神社とよばれ、顕宗天皇・仁賢天皇となる弘計王(をけのみこ)・億計王(おけのみこ)の2人の王子を祀る。王子の地名の由来は「オウジ」からといわれているが根拠はない。一方、「オオジ」ではという説もある。古代の山陽道が大路であることから、明石川を渡って、いなみ野台地に入る地点を「オオジ」とよんでいたのではとするのである。こちらの方が可能性は高い。鳥羽村と王子村が隣接していたとすると、「村の大火により村民は四散し、その一部が王子村などに逃れた。」という話は理解できる。

宗賢神社

 『慶長播磨国絵図』にある鳥羽村は、背後の高位段丘を水源とする小河川を利用して中位段丘から沖積地にかけての崖面で棚田のような小区画水田を、また下の沖積地では明石川の平野部を利用した広い区画の水田を営んでいたのであろう。前者からは収穫量があまり望めない反面、安定した稲作が、後者からは広い面積の水田から収穫量は望めるが洪水による被害がつきまとう不安定な稲作が想定できる。このような農業経営から、安定はしているが発展的余地の少ない村落であったと推察する。
 近世に入り、土木技術の発達により、これまで遅れていた、いなみ野台地の開発に目が向けられた。当地域においても、万治(まんじ)元年(1658)に林崎掘割が完成した。この頃、野々池及び周辺の池沼の堤防の嵩上(かさあ)げ、池底の床掘(とこぼ)りなどによる溜池の改良や配水路の設置など農業基盤の整備が進められ、利水能力は大幅に向上することになった。当村民や他村から居住地を変えずに鳥羽で耕作する出作(でさく)によって新田開発に拍車がかかる一方、立地条件の優れた現在の集落地へと古鳥羽からの移住が本格化したと想像する。

林崎掘割

 このように、掘割の完成は、これまで荒漠たる原野であった鳥羽地域に強いインパクトを与え、一躍発展ポテンシャルの高い魅力的な地へと変貌させたのである。では、鳥羽村はいつ、移動したのであろうか。『林崎村郷土誌(はやしざきむらきょうどし)』には「寛永十六年(二百八十五年以前)松平光重の時此所開墾す」とある。寛永(かんえい)16年(1639)に古鳥羽村から現在の地へと移りはじめた、村の始まりはこれで決まりだと思われた。万治(まんじ)元年(1658)に林崎掘割は完成しているが、それ以前から村づくりが開始したことになる。ただし、寛永16年当時の現在地の現状は、掘割が完成する19年前ということから、農業基盤が未整備な荒蕪地(こうぶち)であったことが推察でき、このような地に開発を求めて入植するであろうかと素朴な疑問が生じる。この件に関する文書が林村に残されていたと考えたが、『林崎村郷土誌』の文脈からは『鳥羽村指出帳(とばむらさしだしちょう)』(領主などが廻村する際に提出する村落の概要書)を参考に「寛文十二子之年三十三年以前開発」としたようである。実は、この差出帳と思われる文書、鳥羽村に現存する。表紙はないが、『鳥羽村指出帳』であろう。その中に「三十三年以前開発 寛文十二子之年 新開方 松平日向守様御代開発御検知役人・・」という同様の記述がみえる。確かに、寛文12年の33年前は寛永16年になる。ところが、この文書の中には「二十五年以前延宝八申之年開・・」、「二十三年以前天和弐戌之年開・・」、「拾八年以前貞享四夘之年開・・」という記述もでてくる。そこから、1672年(寛文12)+33年前=1705年(宝永(ほうえい)2)、1680年(延宝(えんぽう)8)+25年前=1705年、1682年(天和(てんな)2)+23年前=1705年と計算できる。つまり、この文書は宝永2年に記されたもの、この年を基準に何年前とした、ということは『林崎村郷土誌』が計算間違いしていたことがわかる。
 宝永(ほうえい)2年(1705)作成の『鳥羽村指出(さしだし)帳』には、同元年の田畑、屋敷の総面積は、出作分を含め71町6反2畝3歩、溜池6カ所を所有し、石高は910石3斗8升9合とある。なお、田畑等の総面積は、甲子園球場19杯分に相当する。100年後の天保年間(1830~1844)には、石高が1,017石余とあるので、着実に村が成長していったことがわかる。
〈宝永年間(1705年頃)の当村〉
村の規模東西 120間 南北 70間
溜  池
名 称規 模貯水
能力
現在の用途
東西南北
野々池502間250間51町程明石市水道貯水池
萩 池35間165間51町程前神戸ファッション
造形大学
水清谷池135間90間51町程明石南高校敷地
新 池96間92間22町程明石南高校敷地
金子池20間18間3反程不詳
矢之谷新池60間200間51町程不詳
金子池▶通称ヒル池と思われる。前明石短期大学敷地
矢之谷新池▶通称奥ノ池(いわゆる鳥羽池)と思われる。鳥羽付近には「矢之谷」という地名はないが、奥ノ池周辺は、神戸市西区印路字「矢ノ谷」という小字が残っており、池の規模からみても奥ノ池の可能性が高い。
東西 66間 南北 55間
村の位置吉田村境まで道程 約2丁半
和坂村境まで道程 約3丁半
鳥羽新田村まで道程 約8丁
世  帯本百姓  71軒計 118軒
水呑百姓 47軒
男性  407人計 800人
女性  393人
坊主   4人
神主   1人
牛  馬牛  44疋(頭)
※1丁=100m 1間=1.8m