明石市立図書館/明石 郷土の記憶デジタル版

明石の農村

鳥羽地区

 近世初期に吉田村と名称を変える枝吉村(現神戸市西区枝吉・王塚台)には、6世紀初頭に明石平野一帯を支配していた豪族の墳墓・王塚古墳を始め、検出された奈良時代後期から平安時代前期の規則的に配置された掘立柱建物跡群と円面硯・銅製帯飾り金具・墨書土器・木簡・漆紙文書・瓦などが出土したことから明石郡衙(ぐんが)跡(明石郡の役所が置かれていた場所)と考えられている吉田南遺跡、平安時代の明石郡大領(だいりょう)との伝承を持つ明石氏が室町時代中頃に築いた枝吉城などがある。これらの遺跡は、古代から近世(6世紀~17世紀)にかけて、瀬戸内海や明石川水系を利用した水上交通、あるいは山陽道・三木への街道を利用した陸上交通の要衝として名実共に明石郡の政治・経済の中心であったことを示す。

王塚古墳


枝吉城址

 このことを裏付けるように、枝吉城の東方には、戦国時代の城下町の小字名が残されている。家臣団の居住区があった字「北屋敷」、字「南屋敷」、さらに字「連雀(れんじゃく)」などである。連雀(連尺)とは、物を背負うのに用いる背負子(しょいこ)のことで、群馬県高崎市 連雀町・静岡県浜松市 連尺町・愛知県岡崎市 連尺通というように日本各地に地名がある。このような町は、行商人が連雀に荷を繋げたまま荷物を下ろし、そこに店を出したことに由来する。連雀で商品を運搬する連雀衆の存在も考えられ、枝吉村が地域の一大物流拠点として長年にわたり繁栄していたことが推測できる。周辺の村々も枝吉村を中心とした経済圏の一翼を担う集団として成立し、共に栄えていったのではないだろうか。隣接した鳥羽村もその集団の一つとして、経済・生産活動の交流などが盛んに行われていたことが想像できる。