明石市立図書館/明石 郷土の記憶デジタル版

明石の農村

鳥羽地区

 鳥羽村は明石市の東部に位置し、地形からみると標高が25m前後の平坦な中位段丘面からなっていて、北は高位段丘、東は明石川、西は谷八木川、南は海によって区画された地域の北半分に位置する。平野部に形成されたJR明石駅を中心とする明石市街地とは、明石川を挟んで西に対峙する。地質については、鳥羽小学校体育館建設に伴うボーリング結果(図2)をみると、地表から8m下までが淡茶灰色をした砂礫・シルト組成の西八木層、15m下までがアカシゾウ(アケボノゾウ)の化石がよく発見される青灰色をした非常に硬い粘土組成の明石累層上層となっている。鳥羽小学校の運動場には、国土交通省国土地理院の電子基準点が設置されていることからも、この地域が安定した地盤であることがわかる。

図2 ボーリング柱状図

 鳥羽村の行政区画は『林崎村郷土誌』の「林崎村管轄縮図」によると、北は平野村(神戸市)、東は玉津村(神戸市)、西は大久保村、そして、南は和坂村・藤江村を村境とする。一般的に、この区画は鳥羽とよばれる。
 さて、鳥羽の地に、いつごろから人が住み始めたのであろうか。鳥羽周辺の遺跡・遺物を旧石器時代から遡ると、野々池の東で有舌尖頭器と5点の旧石器が採集されている。時期は後期旧石器時代、1.5万年~2万年前のものという。その後の遺物については、新幹線が新神戸駅から西明石駅に向って明石川を通過して、いなみ野台地にさしかかった辺りで弥生土器が採集されている。また、野々池の南では土師器・須恵器が散布していたという話を耳にはしたが、実際に土器を確認していない。古墳時代になると、野々池の南、明石川右岸の中位段丘の縁辺部に王塚古墳が築かれる。明石川流域で最も大きな6世紀前半の前方後円墳で全長は約93m、水をたたえる周濠を備える。この古墳の周辺には陪塚と考えられる庚申塚・経塚・幣塚の3基の小型の古墳があったが、現在は王塚古墳の北に幣塚古墳が残されているのみである。これが、鳥羽村の東方の状況、西方については広大ないなみ野台地が広がり、そこを流れる藤江川・谷八木川などの小河川の流域では稲作は可能であろうが、下流域以外で遺物・遺跡は現在のところ確認されてはいない。
 鳥羽村の北では、松陰新田村の背後の尾根筋に3基の古墳が点在する。古墳時代後期の松陰新田古墳群である。これらの古墳は、高位段丘面から流れる水を利用して水田を経営していた有力農民の墓であろう。しかし、水量が乏しく米の収穫高が多く望めなかったことから、古墳時代以降に村落を形成した痕跡はない。基本的には、江戸時代になって松陰新田の開発が始まるまでは、人が定住できなかったのであろう。
 南に位置する藤江村との境界から、昭和和44年10月、山陽新幹線の工事にともなって、藤江川を見下ろす谷筋で古墳が確認された。藤江中尾古墳といい、古墳時代中期に藤江川流域に点在する村々と河口に位置する漁村(港)を治めていた首長の墓だと考えられている。民俗学では「塚・墓は境界の地につくられる。」という。古墳が山と村との境に造られているということになる。藤江中尾古墳のすぐ西には、日本全国の山を管理する総責任者の大山祇神(おおやまづみのかみ)を祭神とする山神社がある。さらに、東へ行った沖積地から台地を登り切った台地の先端部に三社神社がある。この境内にも山の神が祀られている。山の神もまた、山と里の境界に鎮座する。遺跡・遺物・神社からみると、いなみ野台地の東辺部と南辺部での村と山の堺は、台地の先端・縁辺部と考えられる。つまり、台地の内陸部に古代・中世の遺跡・遺物・建造物等が存在しないことから、このラインを越えて生活できなかったといえる。鳥羽の地で人々が営みを開始するのは、近世をむかえ明石藩が新田開発を奨励し、灌漑用水が確保されるようになってからである。

山神社