堺市立中央図書館/堺市史

堺市史 第七巻

第一編 人物誌

第三章 爛熟期(大阪陣より明治維新迄)

 【堺の藥種商】今井道與は堺の町人で、田邊屋と稱し、藥種問屋を業とし、傍ら茶湯を能くし、大名、高家に出入した。【邸址】邸宅は今の寺地町大道の西側にあつて、今田邊屋跡と呼ばれで居るといふことである。(田中松次郞氏談話)【島津義弘を庇護す】慶長五年島津義弘關ヶ原の役に敗れ、伊賀を經て大阪に出るとの報を得、道與直ちに伊賀の國境に至りて義弘に謁し、隨從して住吉に來り、義弘は道與の別墅に隱れた。然し當時堺政所の奉行は、關ヶ原の落人を搜索すること頗る嚴で、堺に入ることが容易でなかつたが、幸に道與は奉行と親交があつたので、無事入堺し、やがて此地を出船して義弘は無事に薩摩に歸ることが出來た。(今井道與由緖書、寬政重修諸家譜卷第百八)【義弘道與を德とす】其後道與密に薩摩に下つて義弘に謁したが、義弘は關ヶ原役後の庇護を德とし、領内に知行千石を與へ、且慶長十年九月島津家祕方の金瘡及び催生二藥の處方に署名して授與した。然も道與老齡屢々薩摩に下ること難く、其子千五良をして代り仕へしめることゝした。是に於て義弘自像を刻ましめ、元和三年三月之を道與に與へた。次いで千五良も終に致仕して歸國したが、島津家では、道與の知行米は、例年大阪迄送り屆けた。【道與名跡の相續】道與は之を心苦しく思ひ、藩士をして名跡を相續せしめ、知行米を扶持せられんことを、再三懇願し、仁禮信濃守の二男、今井能登之助と稱せしめ、其志を遂げしむることゝとした。(今井道與由緖書)故陸軍少將今井兼利は其遠裔であるといふ。(田中松次郞氏談話)【松齡院に義弘の壽像を安置す】後道與は一草庵を住吉神宮寺の邊に創立し、松齡院と號して義弘の壽像を安置し、(今井道與由緖書)元和五年七月二十七日歿した。(今井與道墓碑)家久之を聞き、道與の死後にも此處に來り、看坊を召して米穀などを給したこともあつた。(今井道與由緖書)後千五良も京に上り、松齡院も遂に退轉し、因つて壽像は之を京都相國寺の塔頭林光院に安置することゝなつた。天保十一年に至り、壽像は本國に移し、畫像を之に代へた。【島津家道與の後裔に扶持す】同年十月島津家では、當時大阪北堀江五丁目に居住した道與の後裔田邊屋彌佶を大阪藏屋敷に召出し、祖先の功勞を賞し、爾後五人扶持を給し、猶ほ特に銀二十貫目を與へた。爾來扶持米は大阪藏屋敷から給付せられたが、明治維新後遞減し、明治七年には一石となつた。同三十年彌佶死亡の際には、香資として金五十圓を相續人、今井謙次郞に贈與せられた。(今井文書)而して給付の米穀は、其後金劵を以て送附せらるるやうになつた。(田中松次郞氏談話)道與の後裔は大阪府中河内郡龍華村大字植松在住の今井義雄氏である。