堺市立中央図書館/堺市史

堺市史 第七巻

第一編 人物誌

第二章 全盛期(足利時代より豐臣時代迄)

 武野宗瓦諱は信材、字は爲久、新五郞と稱し、方寸齋と號した。【紹鷗の男】紹鷗の男である。(泉州龍山二師遺藁)【堺の出生】天文十九年二月堺に生れ、六歳にして父を喪ひ、三好氏の命によつて、父の跡を繼いだ。同九年織田信長に逐はれ、信長の死後堺に歸つた。同十六年豐臣秀吉の命に違ひ、伊勢の朝熊寺に居ること年餘、猶ほ秀吉に追はれ、駿府に到り德川家康に憑つた。同十八年漸く秀吉の許しを得て堺に歸つた。同年父祖傳來の名田を悉く沒收されたが、同十二月和泉萬代庄百濟の地を與へられ、慶長十六年家康の命により秀賴に仕へ、十八年八月攝州增田鄕内に於て聖恩寺村を加增せられた。(武野家系圖)【茶湯を父に學ぶ】茶湯を父に學んで之を能くし、常に紅緣の服を著、又紅帛紗を用ひた。(茶事談、茶人系傳全集)大林宗套に參禪し、法名を宗貞、道號を玉筠と稱した。(泉州龍山二師遺藁)同十九年八月二十六日享年六十五歳を以て大阪に歿した。法號を光徹宗瓦居士といふ。(武野家系圖)澤庵は其畫像に「憶芳江南鷗鷺前、官情世味共休歇、半升鐺内煮山川、方寸胸中入湖海。」と贊した。(武野宗瓦畫像贊)

第三十二圖版 武野宗瓦畫像