賀茂県主同族会(上賀茂神社)/賀茂祢宜神主系図ほか

足汰競馬会雑記

4.[参考] 賀茂競馬の乗尻・所役と馬所

 賀茂競馬は伝説上寛治三年(1093)に始まったとされるが、この当時は宮中の殿上人・左右近衛府の官人等が奉仕しており、建仁三年(1203)『賀茂旧記』五月五日の条に初めて「賀茂競馬」の記事が見える3)。この頃から賀茂の氏人が乗尻や所役を務めるようになったと考えられている4)。『賀茂別雷神社嘉元年中行事』5)には、「氏人すいかんをちゃくし御馬を番」「ろくのやくは 左 わかみやのねぎ(後略)」などと記され、遅くとも13世紀末頃には確実に五月五日の競馬に社司・氏人が所役を務めることが定着していた。馬に関しては「馬は社司あたりに引」と記されているのみで、乗尻や馬の選定方法は記されていない。
 
 乗尻の選定方法に関する記述は、文明9年(1477)五月二日の氏人中置文6)にみられる。
 
  当年の五月五日の競馬の人数につき、氏人らの競望を停止し、承引しなければ氏人職を放つことを定め(中略)、加えて往来田を所持しない無足の氏人を競馬の乗尻として差定することは曲事とし、今後みだりに差定した場合は、時の所司・目代の罪科同然
 
 この置文からは、本来は往来田のある140人の氏人の中から選ばれ、所司・目代が乗尻の差定について責任を持っていたことがわかる。ただし、置文中の「競馬の人数」「氏人らの競望」が何のことを指すのかは不明である。いっぽう、所役に関しては須磨氏の論考6)に示されているように、氏人の中から籤取によって決められ、通年の勤めの一つとして賀茂競馬の役を務めていたと考えられる。
 
 所司・目代による乗尻の差定は16世紀末まで続いていたが、その後変化が現れる。この記事は『賀茂競馬記』7)に記されている。
  慶長三年五月五日、当年より初めて手中より乗尻二人宛に定めらるるなり。是より以前は所司の役たる指つめ申さるなり、即ち老若一同の評議を以て定めらるると、云々
 
 つまり、この記事からは慶長三年(1598)以前までは氏人中の評議によって乗尻を決め、所司が差定をしていたものを、手中から2人ずつ選出するようになったということを示す。手中とは、140人の氏人が一番衆から十番衆まで14人ずつに編成された番毎の組織体のことを言い、十手とも言う。十手そのものは14世紀末には成立していたようであるが8)、15世紀末までに氏人惣中の経済・社会上の基本構成体として確立されることによって、各手に乗尻の選定の責務を分担するようになったものと考えられる。
 

表2.馬所と庄園との対応および馬所籤取りの時期

 
 次に、江戸時代に成立したいくつかの史料から、乗尻や所役がどのように決められたのかを考察する。まず、17世紀初~中頃の史料として、『五月朔日足汰乗尻覚悟記』9)と『競馬記』10)を取り上げる。表は、庄園と馬所の関係(左2列)を『競馬記』から、馬所籤取りの時期・乗尻に支払われる袖料に関する記述(右3列)を『五月朔日足汰乗尻覚悟記』から抜き出してまとめたものである。まず、庄園の序列を現在のそれと比較すると、12番以降は本・摂社袮宜・祝の名となっており、現在の庄園名とは異なっている。ただし、江戸以前に同様の序列であったかどうかは不明である。馬所は神主・社司および惣中が務めているが、庄園と社名とが関係しているわけではない。また、乗尻決定に際して、庄園により3つのグループに分けられる。これは『五月朔日足汰乗尻覚悟記』の中で、馬主の袖料を決めるための籤取りの庄園に対して分けられている。『競馬記』に書かれた馬所をみると、表2中(1)と(3)はそれぞれ惣中と神主で、馬主別に決められていたことが推察される。また、(1)は十手、(3)は家子が乗尻に選ばれると『五月朔日足汰乗尻覚悟記』には明記されている。「家子」は十手と別に書かれているので往来田を持たない無足の氏人とも考えられるが、後に示すように家子の中に所司・目代が含まれることから誰を指すのかが不明である。(2)に関しては、倭文乗尻は別格である(装束や馬装は現在でも他の乗尻と異なる)から別に選ばれるのは妥当であるが、なぜ正祝が倭文と同様別格扱いとされているのかは不明である。ここで、慶長三年の記事「手中から2人づつを選出」との内容が合わないのであるが、これは足汰式と競馬会の乗尻が異なっているため(後述)で、選出の方法も異なっているためであると思われる。乗尻と馬所の決定時期は、明記されているものとされていないものがあるが、(1)の乗尻は御棚会(一月十四日、今の御棚会神事)、馬所は三月晦日月次老若参会(氏人で構成される運営諮問会議で毎月末に開催)で、(2)の乗尻は立会参会(社司と氏人の代表が参加する最高決定機関。日は不明)で、(3)の馬所は目代竹切の夕飯(四月五日。竹切が何を指すのかは不明だが、賀茂競馬で用いられる竹の切り出しのことか)で決定される11)。
 
 次に、江戸時代に成立したいくつかの史料から、乗尻や所役がどのように決められたのかを考察する。まず、17世紀初~中頃の史料として、『五月朔日足汰乗尻覚悟記』9)と『競馬記』10)を取り上げる。表は、庄園と馬所の関係(左2列)を『競馬記』から、馬所籤取りの時期・乗尻に支払われる袖料に関する記述(右3列)を『五月朔日足汰乗尻覚悟記』から抜き出してまとめたものである。まず、庄園の序列を現在のそれと比較すると、12番以降は本・摂社袮宜・祝の名となっており、現在の庄園名とは異なっている。ただし、江戸以前に同様の序列であったかどうかは不明である。馬所は神主・社司および惣中が務めているが、庄園と社名とが関係しているわけではない。また、乗尻決定に際して、庄園により3つのグループに分けられる。これは『五月朔日足汰乗尻覚悟記』の中で、馬主の袖料を決めるための籤取りの庄園に対して分けられている。『競馬記』に書かれた馬所をみると、表2中(1)と(3)はそれぞれ惣中と神主で、馬主別に決められていたことが推察される。また、(1)は十手、(3)は家子が乗尻に選ばれると『五月朔日足汰乗尻覚悟記』には明記されている。「家子」は十手と別に書かれているので往来田を持たない無足の氏人とも考えられるが、後に示すように家子の中に所司・目代が含まれることから誰を指すのかが不明である。(2)に関しては、倭文乗尻は別格である(装束や馬装は現在でも他の乗尻と異なる)から別に選ばれるのは妥当であるが、なぜ正祝が倭文と同様別格扱いとされているのかは不明である。ここで、慶長三年の記事「手中から2人づつを選出」との内容が合わないのであるが、これは足汰式と競馬会の乗尻が異なっているため(後述)で、選出の方法も異なっているためであると思われる。乗尻と馬所の決定時期は、明記されているものとされていないものがあるが、(1)の乗尻は御棚会(一月十四日、今の御棚会神事)、馬所は三月晦日月次老若参会(氏人で構成される運営諮問会議で毎月末に開催)で、(2)の乗尻は立会参会(社司と氏人の代表が参加する最高決定機関。日は不明)で、(3)の馬所は目代竹切の夕飯(四月五日。竹切が何を指すのかは不明だが、賀茂競馬で用いられる竹の切り出しのことか)で決定される11)。
 
 さて、少し論点がそれるが、馬所が乗尻に支払う袖料が『五月朔日足汰乗尻覚悟記』にまとめられているので紹介しておきたい。(1)の十人の乗尻に対する袖料は各4斗で、碁石打によって職中から支払われる。(2)の倭文・正祝の袖料は各5斗で、10人の乗尻と同様、碁石打によって職中から支払われる。(3)の残り8人の乗尻が受け取る袖料は各4斗であるが、竹切の折の夕飯において、家子14人に対して行われる籤取によって額が異なる。まず、所司・目代は当日に役があるため籤取りから外される。残り12(本文には13とある)人のうち、8人は各1斗2升5合とし、無札の4人は先の1斗2升5合に加え、4斗2升5合を加えて供出し、全3石2斗を等分して各乗尻へ支払う。
 
 実際に賀茂競馬の乗尻および所役の名前を集約した史料も残されている。本稿では、『賀茂社競馬記』12)に記された元禄十三年(1700)から享保五年(1720)の21年分の乗尻と所役の変遷をまとめ、その特徴をまとめた。まず、足汰式と競馬会の乗尻の変遷(表3、4)を比較すると、現在と異なり殆どの場合別の氏人が務めていたことが特徴的である。個々の乗尻に着目すると、乗尻の年齢は四十・五十歳代が散見される。いったん乗尻に選ばれたからには次の競馬でも乗尻になる優先権があった13)。ただし、表3、4からは足汰式の乗尻は毎年違う庄園を務めることが多く、その序列に関連性もみられない。いっぽう、競馬会の乗尻は固定化されている者が目立ち、左右は関係ないものの4-5以内の番に限定されている。ここで、五月五日一番左の乗尻の重智と重達に着目する。『賀茂社家系図』14)によると、彼らは兄弟で、重智は宝永三年に51歳に死して後、宝永七年より45歳の重達が一番左を引き継いでいる。馬所(表5)は記述が略されているため年代が特定できるわけではないが、宝永年間前後で馬所に変化が生じる。宝永以前に関しては元禄十五年にしか記述はみられず、『競馬記』に書かれた馬所(表2)とも少し異なる。宝永以後は、出雲庄が松下家となっている他は、社司の序列となっており、正袮宜以下は当官がその馬主となっていてその関係性は整然とする。名前を見ると、欠職が出た場合順に上官へシフトするいわゆる「次第転補」が確認できる。所役(表6)の変遷に関しては、神主に関しては次第転補によって、別当は氏人中の世襲の職であったため複数年同じ氏人が務めている。所司および目代は氏人の諸役人の一であるため毎年籤取によって替わる。階下は競馬会のみの役であるため、その選出方法は不明であるが、毎年交替のようである。数年前まで乗尻を務めていた者が階下になっている例もみられる。
 
 この社名による序列は『賀茂競馬記』天保十四年(1843)五月朔日の記事に「貴布袮袮宜」とみられ、江戸末期までこの序列で足汰式が行われていたものと思われる15)。いつ頃、なぜ現在の序列に変化したかは不明であるが、明治時代の社家の世襲制度が廃止された時に、社司による馬所の制度が成り立たなくなった可能性があり、明治時代の賀茂社をめぐる環境の変化に伴って賀茂競馬の運営体制の変化も余儀なくされたのではないかと考えられる。このことの裏付けは、当時の社務日記等を調べること等が必要であるが、今後の課題としたい。
 
 さて、少し論点がそれるが、馬所が乗尻に支払う袖料が『五月朔日足汰乗尻覚悟記』にまとめられているので紹介しておきたい。(1)の十人の乗尻に対する袖料は各4斗で、碁石打によって職中から支払われる。(2)の倭文・正祝の袖料は各5斗で、10人の乗尻と同様、碁石打によって職中から支払われる。(3)の残り8人の乗尻が受け取る袖料は各4斗であるが、竹切の折の夕飯において、家子14人に対して行われる籤取によって額が異なる。まず、所司・目代は当日に役があるため籤取りから外される。残り12(本文には13とある)人のうち、8人は各1斗2升5合とし、無札の4人は先の1斗2升5合に加え、4斗2升5合を加えて供出し、全3石2斗を等分して各乗尻へ支払う。
 
 実際に賀茂競馬の乗尻および所役の名前を集約した史料も残されている。本稿では、『賀茂社競馬記』12)に記された元禄十三年(1700)から享保五年(1720)の21年分の乗尻と所役の変遷をまとめ、その特徴をまとめた。まず、足汰式と競馬会の乗尻の変遷(表3、4)を比較すると、現在と異なり殆どの場合別の氏人が務めていたことが特徴的である。個々の乗尻に着目すると、乗尻の年齢は四十・五十歳代が散見される。いったん乗尻に選ばれたからには次の競馬でも乗尻になる優先権があった13)。ただし、表3、4からは足汰式の乗尻は毎年違う庄園を務めることが多く、その序列に関連性もみられない。いっぽう、競馬会の乗尻は固定化されている者が目立ち、左右は関係ないものの4-5以内の番に限定されている。ここで、五月五日一番左の乗尻の重智と重達に着目する。『賀茂社家系図』14)によると、彼らは兄弟で、重智は宝永三年に51歳に死して後、宝永七年より45歳の重達が一番左を引き継いでいる。馬所(表5)は記述が略されているため年代が特定できるわけではないが、宝永年間前後で馬所に変化が生じる。宝永以前に関しては元禄十五年にしか記述はみられず、『競馬記』に書かれた馬所(表2)とも少し異なる。宝永以後は、出雲庄が松下家となっている他は、社司の序列となっており、正袮宜以下は当官がその馬主となっていてその関係性は整然とする。名前を見ると、欠職が出た場合順に上官へシフトするいわゆる「次第転補」が確認できる。所役(表6)の変遷に関しては、神主に関しては次第転補によって、別当は氏人中の世襲の職であったため複数年同じ氏人が務めている。所司および目代は氏人の諸役人の一であるため毎年籤取によって替わる。階下は競馬会のみの役であるため、その選出方法は不明であるが、毎年交替のようである。数年前まで乗尻を務めていた者が階下にになっている例もみられる。
 
 この社名による序列は『賀茂競馬記』天保十四年(1843)五月朔日の記事に「貴布袮袮宜」とみられ、江戸末期までこの序列で足汰式が行われていたものと思われる15)。いつ頃、なぜ現在の序列に変化したかは不明であるが、明治時代の社家の世襲制度が廃止された時に、社司による馬所の制度が成り立たなくなった可能性があり、明治時代の賀茂社をめぐる環境の変化に伴って賀茂競馬の運営体制の変化も余儀なくされたのではないかと考えられる。このことの裏付けは、当時の社務日記等を調べること等が必要であるが、今後の課題としたい。