豊橋市/とよはしアーカイブ

とよはしの歴史

第四章 吉田藩政下の町と村

三 城下町吉田の発展

 戸数約一〇〇〇戸、人口約五五〇〇人の吉田は、城下町として、宿場町として、さらに湊町としても繁栄した町である。
吉田宿の戸数と人口 寛延3年 1750
表町戸数裏町戸数
船町113279232511天王町15282553
田町76165161326萱町53140118258
坂下町30534699指笠町31108111219
上伝馬町77162155317御輿休町11262147
本町3613090220魚町119302306608
札木町71196302498垉六町174952101
呉服町40134122256下リ町265556111
曲尺手町68221166387利町19415899
鍛冶町62168159327紺屋町217084154
下モ町247057127手間町4183104187
今新町61132146278元鍛冶町268375158
元新町436677143世古町7242246
総戸数1,087戸 総人口5,530(男2,785人 女2,745人)

 人口の多さでは、魚町・船町・札木町の順に続く。また、男女比を見ると各町の主要な職業の特色がうかがわれる。
 宿場の中心である札木町の東角、大手門前の通りに高札場(こうさつば)があり、札木という町名はそこから生まれたといわれている。掲げられた高札には、町民の従うべき指針を示してあった。たとえば、「親子兄弟夫婦を始め諸親類にしたしく下人(げにん)等に至る迄これをあはれむべし、主人ある輩(やから)はおのおの其奉公に精を出すべき事」というように封建的な道徳を説いている。また、「人売買かたく停止す」などの条項もあり、その当時このような事実が存在したこともうかがえる。この高札は幕末まで続いた。
 一方、贅沢(ぜいたく)についても規制が加えられた。寛政(かんせい)の改革では質素倹約を奨励しているが、吉田においても寛政三年(一七九一)に衣類や髪飾りの類の贅沢をつつしむことを命じている。
 とくに、火災についての警戒は高札にも厳しく掲げられていた。たとえば、「火を付(つけ)る者をしらば早々申出べし、若(もし)かくし置くに於(おい)ては、其(その)罪重かるべし。たとひ同類たりといふとも申出るに於てては、其(その)罪をゆるされ、急度御褒美(きっとごほうび)下さるべき事」など五か条にわたって指示している。
 吉田宿と二川宿で、一度に二〇軒以上も燃えた大火は二四回を数える。宿場町は家が建てこんでおり、いったん火事が起きれば大火災につながる。安永(あんえい)八年(一七七九)に吉田宿最大の火災、宗淳(そうじゅん)火事が起きた。実に、総戸数九七四軒のうち三八四軒を焼きつくした。この火災を契機として、天明(てんめい)三年(一七八三)、吉田町中の四か所に火消組が設けられた。各組一一人の火消と一人の世話方という組織であった。火消道具は藩から貸与される形で月番町奉行屋敷に保管されており、出火のたびに受け取りにいき、終わればまた返却にいった。吉田の火消は明治に至るまで続いた。

飛竜水(竜吐水)
豊橋市美術博物館蔵

 享和(きょうわ)二年(一八〇二)の吉田の商家と職人の一覧を見ると、当時の商工業が予想以上にバラエティーに富んでいたことがわかる。なお、表にはないが、同年の札木町の旅籠(はたご)は六五軒を数えた。また、同年の医師の数は二五人で、吉田二四町の人口比では、医師一人当たりの吉田の人口は一九六人となる。
吉田宿 商家・職人一覧 享和2年 1802
名称  :  数名称  :  数名称  :  数名称  :  数名称  :  数
穀問屋1鍋釜屋5綿実屋2下駄屋2柄巻師1
穀屋47鋳掛屋2薬種屋7商人宿7髪結4
呉服屋2瀬戸物屋5洗濯屋13川船宿5塗師4
荒物屋21焼継屋1ろうそくや5船問屋7表具師4
魚問屋13小間物屋18ほくちや6干鰯屋5籠師2
魚中売58油屋5付木屋1薪屋8仕立物師9
肴屋9練油屋4煮売あまざけ屋8釘師13石工2
酒屋2青物屋18飴屋5農鍛冶36畳師9
莨問屋2醤油屋1餅屋12船鍛冶1傘師7
刻莨屋23酒造屋6煎餅屋3大工31臼作り1
刻莨手間取13酢造屋1饅頭屋6船大工1轆轤師1
莨入師2居酒屋6菓子屋16木挽3提灯師4
塩問屋5こな屋4茶屋8紺屋16指物師2
塩屋4豆腐屋15すしや2桶屋12合羽師2
糀屋5紙屋2うどんや7左官4
麩屋1綿屋4風呂屋19研屋3
白木屋3綿打5足袋屋3鞘師2
「豊橋市史第二巻」より

 吉田藩では他の城下町と同じく、主な商工業に対して一定の運上金を課し、その代償として営業を保護したり独占するのを許した。(一〇五ページ参照)鍛冶町における鍛冶職、船町における船番組は独占事業であった。その他にも紺屋(こんや)・髪結(かみゆい)・瓦師なども株仲間を結成している。髪結職では、天保九年(一八三八)に株仲間を結成し、冥加金(みょうがきん)として毎年銭一〇貫文を上納するかわりに、今後髪結職が増えることを禁止してほしいと願い出て許可されている。
 なお、表中の「ほくち」とは火打石に火打金を打ちつけて発する火花を移し取るための綿状のもので、当時、吉田の名物として知られていた。
 
吉田を襲った大災害
 吉田に大被害をもたらした地震は、宝永四年(一七〇七)十月四日の宝永の大地震と嘉永七年(一八五四)十一月四日の大地震である。
 宝永の大地震の震源地は、東南海道沖でマグニチュード八.四であったといわれる。大正十二年(一九二三)の関東大震災がマグニチュード七・九であったので、すさまじい大きさである。吉田城内では本丸から三の丸に至るまでの建物・櫓・門・石垣・土塀まで、すべて破壊されつくした。ほとんどの武家屋敷も潰れた。倒壊した本丸御殿はこの後も再建されなかった。
 町家も、総戸数一〇一一戸のうち全壊三二三戸、半壊二六二戸、破損したもの四二六戸で、すべての家が被害にあい、死者も一一人いた。吉田の町は、藩主牧野成央(なりなか)から救援金二〇〇〇両を受けてようやく立ち直った。この地震による津波で、浜名湖口の今切も大打撃を受け、東海道の今切(いまぎれ)渡海も不通になった。
 嘉永(かえい)七年の大地震もマグニチュード八・四で、被害程度は、宝永の大地震よりも軽かったようだが、それでも、吉田城内の主要な櫓(やぐら)が被害を受け、城下の吉田の町地では全壊一二八戸、半壊一五四戸を数えた。また、死者一四人、高潮による溺死者一一人、行方不明者三人など悲惨な結果をもたらした。吉田領内では家屋の全壊六五三戸、半壊八〇八戸に達した。
 火災の最大のものは、安永八年十一月三日、吉田本町の医師藤井宗淳(そうじゅん)方から出火した「宗淳火事」であった。吉田の中心街である本町・札木町・呉服町など一一か町三八四軒を焼失した。しかも、そのなかには問屋場・本陣・脇本陣・旅籠屋六〇軒などが含まれており、宿駅としての機能は完全に停止した。
 記録に残っている異常気象による大災害も合計二九回ある。慶長一九年(一六一四)から慶応二年(一八六六)までの二五〇年間に、暴風雨六回、洪水五回、洪水による吉田大橋の流失三回、干ばつ五回などである。
 暴風雨にともなう竜巻もあった。慶長十九年、吉田町地の田町で家が吹き飛び六人が死亡した。また、宝永五年にも上細谷村に竜巻が発生、六〇戸余が倒壊したなどの記録がある。