豊橋市/とよはしアーカイブ

とよはしの歴史

第二章 三河国の誕生

一 古墳と豪族

 日本の各地に残されている前方後円墳は、有力な豪族たちが同じ約束ごとに基づいて古墳づくりをしていたことを示している。つまり、大和王権の支配に組み込まれることになった地方豪族が、大和王権の許可を受けて築造したものが前方後円墳であろうと考えられている。巨大な前方後円墳の築造は、大和王権に連なる特別な豪族にのみ許された権力の象徴である。
 大和王権は地方に国造(くにのみやつこ)を置いて、これを支配した。国造はその強大な権力を背景に地方を統合し、壮大な古墳を築造した。さらに、国造の下には稲置(いなぎ)・村主(すぐり)などの姓(かばね)を持つ有力者がおり、彼らもまた前方後円墳の築造者となったに違いない。
 豊橋市域では、一一基の前方後円墳が確認されている。開墾などのため消滅してしまったものもあり、詳細が不明なものも多いが、規模や副葬品などから国造の墳墓の可能性のある古墳としては、馬越長火塚(まごしながひづか)古墳(県史跡)があげられる。
豊橋市域の主な前方後円墳
5C
中期
東田古墳(50メートル)
向山1号墳(43メートル)
こんぞうぼう古墳(19メートル)
火打坂1号墳(20メートル)
6C
後期
三ツ山古墳(34メートル)
弁天塚古墳(43メートル)
車神社古墳(42メートル)
狐塚古墳(34メートル)
妙見古墳(51メートル)
馬越長火塚古墳(64メートル以上)
牟呂大塚古墳(40メートル前後)

 馬越長火塚古墳は、洪積台地上に築かれた前方後円墳である。全長は六四メートル以上と推定され、後円部の直径が二五メートル、高さ五メートル、前方部の幅一二メートル、残存する高さ二メートルという規模の前方後円墳である。六世紀後半に築造されたと考えられ、この時期の古墳としては東海地方最大級のものである。また、横穴式石室の入口が南に開口しているが、前室と後室の二つの石室を持つ複室形式で、羨道(せんどう)(通路)もつけている。この石室は愛知県下最大規模であり、横穴式石室の最盛期を示すものである。

馬越長火塚古墳の石室


馬越長火塚古墳の石室 愛知県教育委員会「重要遺跡指定促進調査報告Ⅵ」より

 太平洋戦争中、この石室が陸軍の倉庫として使用されていた時、金銅装杏葉(こんどうそうぎょうよう)(馬具の一種で、胸(むな)がいや尻がいに下げる飾金具)一点と須恵器二点が発見された。さらに、昭和四十三年(一九六八)の清掃発掘時には、数多くの玉類・耳環(じかん)などの装身具、鉄製の鏃(やじり)や刀などの武器、鉄製の斧(おの)や鎌(かま)などの農耕具、辻金具(つじかなぐ)などの馬具、須恵器ほか多くの副葬品が石室の中から発見されている。副葬品の中でも、馬具は中期以降の古墳から発見される特色ある副葬品で、高い身分を示すものである。とりわけ、金銅装の杏葉ともなれば、さらに社会的身分の高さを示すものとして注目される。

馬越長火塚古墳出土の杏葉
鎌田好美氏蔵

 このような古墳の時期と規模、多くの副葬品から、馬越長火塚古墳はこの地方で大きな力を持った国造クラスの墳墓であろうと推察される。この古墳以外には豊川市八幡町の船山一号墳(五世紀後半、全長九四メートル)なども国造の墳墓に当たるものと考えられている。また、馬越長火塚古墳以外の豊橋市域の前方後円墳については、金銅装の武器などが出土している古墳もあるが、その規模から国造の下の稲置(いなぎ)・村主(すぐり)などの姓(かばね)を持つ有力者のものであろうと考えられる。