豊橋市/とよはしアーカイブ

とよはしの歴史

第一章 文化のあけぼの

三 稲作と定住生活

 弥生時代といえば、稲作、農村、豊作を祝う祭りと、平和でのどかな日々を連想しがちである。しかし、この時代はムラからクニへ統一されていく時代であり、人を傷つけ殺すための武器が日本列島で初めて登場し、人々が本格的に戦い始めた時代である。
 縄文時代にも、矢傷(やきず)を負ったり、石斧(せきふ)で頭を割られた人骨が発見されている。しかし、彼らは狩りの道具や木を切り倒す道具を凶器にして殺された犠牲者に過ぎない。稲作の開始にともない、穀物の貯蔵が可能になったことから財産が生まれ、それをめぐる争いが始まった。時代がくだり弥生時代に入ると、人殺しのための武器がつくられ、武器の崇拝も始まった。矢を射られ、剣で刺し殺された犠牲者の墓も多くなった。集落も、このような時代にふさわしい防御的な機能を備えた濠(ほり)を持つ環濠(かんごう)集落や、高地性の集落が各地に見られるようになった。
 この環濠集落を有名にしたのは佐賀県の吉野ケ里(よしのがり)遺跡である。この遺跡では、昭和六十一年(一九八六)から発掘が進められ、集落を取り囲む二重の濠と土塁、物見櫓、竪穴住居跡と大規模な倉庫群が明らかになってきた。幅が六メートルを越え、深さも三メートルほどの深く大きな濠に囲まれた集落には、一〇〇〇人ほどの人々が周辺の水田を耕しながら生活していたと推定されている。
 吉野ケ里遺跡は、およそ一八〇〇年前の紀元二世紀の倭国大乱といわれる戦乱の世の中の遺跡である。そのため、集落の北端にある墳丘墓の甕棺(かめかん)からは、首のない人骨、石の矢じりが刺さったままの人骨などが多数発見され、戦いの多いこの時代を象徴している。
 豊橋市域で、このような防御(ぼうぎょ)用の濠を持った環濠集落として注目されるのは、石巻本町の白石遺跡と高井遺跡である。白石遺跡は、今からおよそ四〇〇〇~二〇〇〇年前の縄文時代後期から弥生時代前期にかけての遺跡である。平成二年(一九九〇)の調査により、幅一・五メートル、深さ一メートル、長さが一〇メートル以上の溝が発見された。この溝は、台地の内部に向かって弧状に巡るU字形の断面を持っており、その中から弥生前期の遠賀川(おんががわ)式土器も発見された。溝の断面の特徴、発掘された遠賀川式土器、その他のデータを他地域の例と比較検討した結果、この溝は環濠の一部であり、白石遺跡は環濠集落であろうと推定された。
 弥生時代前期の三河においては、この白石遺跡以外はすべて縄文時代からの伝統を引く条痕文(じょうこんもん)土器を使用する人々の村であり、環濠は見られない。白石遺跡はそれらの人々の中に、稲作をともなって進出した遠賀川集団の小規模な入植地であったと考えられている。こうした特徴を持つ村は、これまでその東端が尾張までとされてきたが、この遺跡の発見により、東端は三河にまで達していたことがわかった。しかし、この遺跡は環濠集落でありながら、戦いのようすをうかがわせるような遺物は発見されていない。そのうえ、遺物として遠賀川式土器のほかに、この地方の縄文時代中期から晩期までの土器や、近畿地方および信州からの影響を受けた土器も出土している。まわりの人々との交易などがおこなわれていたのであろう。
 高井遺跡は、白石遺跡のすぐ東側の同じ台地上にある今から二〇〇〇~一四〇〇年前の弥生時代と古墳時代を中心に栄えた遺跡である。写真のように、この遺跡でも弥生時代後期のものと考えられる幅三メートル、深さ一・八メートル、長さ三〇メートル以上の環濠と思われる大きな濠が見つかっている。白石遺跡の人々と何らかの関係のある遺跡であろう。

高井遺跡の環濠

 この遺跡で注目されるのは、弥生時代中期の方形周溝墓が見つかっていること、環濠の中から多量の弥生時代後期の土器が折り重なるようにして出土していることである。また、「竜」の絵が描かれた土製紡錘車(ぼうすいしゃ)が出土しているのが珍しい。高井遺跡の場合も、戦いのようすをうかがわせるような遺物は発見されていない。

高井遺跡出土の土製紡錘車 豊橋市教育委員会蔵