豊橋市/とよはしアーカイブ

とよはしの歴史

第一章 文化のあけぼの

三 稲作と定住生活

 豊橋周辺で弥生時代の農村遺跡としてよく知られているのは、豊川河口近くの低湿な沖積平野に位置する瓜郷(うりごう)遺跡である。この遺跡は、昭和二十二年(一九四七)に市域を流れる江川(えがわ)の改修工事にともない発見された。同年から二十七年にかけて五回の発掘調査の結果、弥生時代中期から古墳時代初期までの大規模な集落の遺跡であることがわかり、昭和二十八年、国の史跡に指定された。

瓜郷遺跡の発掘 「瓜郷」より

 瓜郷遺跡は沖積平野に立地しているが、当時の地表は現在よりも一メートルほど低かったので、人々が住みついたころは幅四〇〇~五〇〇メートルの谷状の湿地が広がっていた。人々はこの湿地を利用して水田を開き、湿地を望む小高い所に集落をつくっていた。周辺には、カシ類を中心にシイ・クリなどの広葉樹の林が広がっていた。住居は、竪穴(たてあな)住居ではなく平地式の住居であり、二本の柱による切妻(きりづま)の住居であった。

復原住居

 この遺跡で注目されるのは現在の道路面から約三メートルの深さの所から黒い炭のような籾(もみ)が発見されたことである。稲作を証明する水田の跡は残念ながら発見されていないが、この瓜郷遺跡でも米を食べていたことがはっきりした。この米はずんぐりして丸くジャポニカ種といわれている。

炭化した籾 「瓜郷」より

 さらに、この遺跡からは農耕生活を送っていたことが確認できる農具として、鍬(くわ)や踏鋤(ふみすき)といった木製農耕具をはじめ、大陸系の磨製(ませい)石器など弥生文化を特徴づける遺物が出土している。当時の低湿地ではこれらの農具で十分耕作が可能であった。また、これらの木製農具や骨角器の加工のようすから金属器を使用していたことがうかがわれる。

瓜郷遺跡出土の木製農具実測図
「瓜郷」より

 この遺跡から出土した弥生土器は、壺(つぼ)・甕(かめ)・高杯(たかつき)の三種類に区分される。土の層や竪穴によって区分され、弥生中期のものは「瓜郷式」・「下長山(しもながやま)式」・「長床(ながとこ)式」、弥生後期のものは「寄道(よりみち)式」・「欠山(かけやま)式」と呼ばれている。とくに、欠山式の手焙(てあぶり)型土器は近畿地方の影響を強く受けたものである。この遺跡では、豊川の氾濫や海面の変化により、遺物がはっきりと分かれたいくつかの層になって出土してくるため時代を知るめやすとなる標識遺跡として知られている。

瓜郷遺跡出土の手焙型土器
豊橋市美術博物館蔵

 この時代の生活については、遺跡の所々に鳥・獣・魚の骨を含む貝塚が形成されていたり、多くの漁撈具(ぎょろうぐ)や木製の弓、およびオニグルミやクリなどの木ノ実が出土していることから、稲作のみでなく狩猟・漁撈・採集にも多くを頼っていたことが明らかになった。これは農業生産が開始されても当時の生産技術はまだ未熟であり、米の生産量はそれほど多くなかっただろうことを意味する。米の収穫高は、年間に必要な食料の三分の一にしかならないとする静岡県登呂遺跡の資料に基づいた試算もあり、瓜郷の人々の食生活がおおよそ推察できる。