豊橋市/とよはしアーカイブ

とよはしの歴史

第一章 文化のあけぼの

二 縄文時代の生活

 三河湾およびその周辺は、貝類の生息に適した遠浅の海が広がり、貝塚の多い地域の一つにあげられている。市内でも前期の石塚(いしづか)貝塚(花田町)、小浜(こはま)貝塚(小浜町)をはじめ、後期の坂津寺(さかつじ)貝塚(牟呂町)、晩期の大蚊里(おがさと)貝塚、五貫森(ごかんもり)貝塚(大村町)、水神(すいじん)第一貝塚・第二貝塚、市杵嶋(いちきしま)神社貝塚(牟呂町)など多くの貝塚が発見されている。
 もともと、貝塚は縄文時代の人々が食べた貝殻(かいがら)や動物の骨、いらなくなった物を捨てたごみ捨て場であり、集落の近くに分布することが多い。ところが、このごみ捨て場では、捨てられた貝がらに混じって石器・骨角器・土器・人骨も発見されることがあり、当時の生活を知る遺跡として貴重な価値を持つ。
 しかし、牟呂地区で新たに調査がおこなわれた縄文時代晩期の大西貝塚は、これまで知られている貝塚とは性格が異なっていた。位置・貝層などを検討した結果、当時の保存食である干し貝を大量に加工したためにできた貝塚ではないかと考えられている。
 大西貝塚は、三河湾に向かって延びる豊川左岸の台地先端部に位置しており、当時はこの台地のすぐ近くまで海であった。昭和六十二年度(一九八七)と平成元年度(一九八九)に発掘調査がおこなわれ、貝塚は縄文時代晩期と古墳時代後期の二期に分けて形成されたことが明らかになった。
 縄文時代の貝層は、南北に約一三〇メートル×四〇メートルの範囲に広がるほとんど砂を含まない純貝層で、厚い所では二・五メートルも堆積(たいせき)している。貝の種類はほとんどハマグリで、九割近くを占めている。貝層の保存状態も良い大規模な貝塚であり、この地方では貴重な例である。

大西貝塚の貝層

 この大西貝塚では、直径四mほどの楕円形の中に、二〇~三〇センチ大の河原石が敷き詰められた敷石(しきいし)遺構や人頭大の河原石を縦五〇センチ横七〇センチほどの大きさに囲った石組炉址(いしぐみろし)が見つかっている。また、貝層の上で直接火を使い、縄文土器を利用して煮炊(にた)きをした跡も見られる。なお、土器は何千点もの破片が見つかっているのに、当時の生活用具である石器が十数点しか見つかっていない。さらに、周辺はかなり発掘調査が進行しているにもかかわらず、住居遺跡はおろか遺物さえも確認されないため、断定はできないが集落は存在しなかったと考えられている。
 こうしたことから、この大西貝塚は、ふだんは狩猟や木ノ実などの豊富な山裾(やますそ)に生活をする人々が、貝類の採集に適した春秋のシーズンに貝を採りに来た場所であり、そして、貝むきや煮炊きをおこない、保存のための干し貝加工をした場所であろうと推測されている。また、短期間に多量の貝が堆積していることから、自分たちが食べるだけでなく、一部は交易品として他の地域へ運ばれた可能性もある。
 
吉胡貝塚の人骨
 田原町の吉胡(よしご)貝塚は、三四〇体の人骨が発見された日本一の縄文人骨の出土地である。これらの人骨は当時の習慣の多くを伝えてくれる。
 縄文時代後期には、写真のように手足を折り曲げる「屈葬(くっそう)」が多く、晩期には手足を伸ばした「伸展葬(しんてんそう)」で葬られていることも確認されている。このような屈葬は、死者のよみがえりのために胎児のように体を折り曲げたとも、生き返ることを恐れたためであるとも言われている。自然を恐れていた縄文人にとっては呪術(じゅじゅつ)的な意味があったのであろう。
 また、人骨の多くに糸切り歯や門歯を抜く抜歯(ばっし)の習慣が見られた。痛みに耐えることを示し、大人の仲間入りをする通過儀礼であったのだろう。

屈葬人骨