浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

中村與資平関連資料

『浜松が生んだ名建築家中村與資平展』

中村與資平展資料

 中村与資平は1880(朋治13)年2月8日、静岡県長上郡天王新田村(今の浜松市天王町)に中村家(中村貞一郎)の長男として生まれた。幼少のころは病弱で成育もあやぶまれたくらいであった。7歳で下堀小学校に入学、11歳で浜松の城内にあった高等小学校(今の元城小学校)に入学した。家から学校まで毎日往復12キロ余の道を通うので、遅刻することが多く、よく“かくれ休み”をした。中沢の百段上の三方原などで山うさぎやきじを追いかけて遊び、春の陽をあびながらあげひばりを聞き、そこで弁当をたべて帰ったという。こんなことがつづき、ついに高等小学1年で落第した。帰宅してからは1日中遊びくらして帰り、復習などは一度もしたことはなく、かばんの中にはすべての道具が入っているので、時間割を見たこともなかった。ある先生が教室で自分の横を通る時に「枯木も山のにぎやかさ」といったという。よく歩き、遊んだので体は丈夫になり力もつよく、ボス的存在となった。ある日、クラスの首席の男が落した紙をひろってみると、それには日曜日に勉強をする時間割が書いてあった。世の中にはこのように勉強する人もあるのかと驚き、参考にそれを写して机の前にはり、そのまねをしてみた。それより勉強がおもしろくなり、浜松中学校(今の浜松北高校)に入ると成績は3、4番となった。
 
 父は与資平を家において村の教師にしようとしたが、同級生が高等学校を受けるというので、三高(今の京都大学)を受験、電気科に合格した。その理由は、将来必ず天竜川の水を利用して水力電気会社ができると思い、その技師になれば自宅にも住め父を安心させると考えたからだ。しかしその後、電気技師よりも建築家の方が自営もでき、身の自由もきくことを知り、中途より建築科に変更した。
 
 東京帝国大学(今の東京大学)工学部建築科に入学したのは1902(明治35)年7月、23歳の時だった。講義は平凡で失望したというがよく勉強し、2年へ進んだ時は首席となった。2年の夏休みに帰省して、8月21日に妻を迎えた。与資平24歳、妻は19歳であった。卒業は1905(明治38)年、世は大戦後の不景気で就職口が少なかったため、大学院に籍をおいて辰野事務所に奉職した。
 
 ※中村家は慶長年間(1596~1614年)から代々、庄屋をつとめた遠州地方きっての豪農であった。次ページの銅版画は今から約100年前の中村家を描いたものゆえ、与資平はこの広大な屋敷で育った。