浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

中村與資平関連資料

『浜松が生んだ名建築家中村與資平展』

自伝 與資平誌

 大正10年(西暦1921)春4月日本を立ち米国より欧州に渡り、米国では自動車を購入して、シアトルよりロスアンゼルスまで旅行し、ロンドンから巴里にはその頃珍しかった飛行機で飛び、極光を見んとてノルウエーに渡ったが、時季が適せないので、その頃鉄道の通じた最終点ドンバスまで行き、その後は自動車で西海岸に出て、フィヨルドを見物し、或いはスペインの南端のグラナダに行くなど気の向く儘に旅行した。とにかく、費用におかまいなく元気にまかせ、欧米各地を旅行した。その旅行記は別冊にある。約1年間旅行して帰国した。国の両親も追々老年になったので、満州の日米公司、朝鮮の事務所等も閉鎖して東京に移った。東京でも最初はアントンフエー氏を雇っていたが、月給600円で、余り高値なので、氏の望に任せて、レーモンド建築会社に入社させることにした。その頃の事務所は赤坂溜池にあったが、関東大震災で倒壊焼失したので、一時新宿のビルヂングに移り、のち丸の内昭和ビルに移った。震災後志岐信太郎氏の依頼によりかつて大連の日米公司の工事部主任であった藤井嘉造氏を、志岐信太郎氏の経営した志山商会主任に推薦せしも、同氏は志岐氏の経営方針に不満を抱き退社したので、止むなく自分が再度工事部を設けて同氏を主任として、請負工事を経営することにした。信用は増し、指名は盛にあったが、請負業務は決して永く継続すべきものにあらざることを感じ、数年にして解散し、所員にはそれぞれの法を講じて各自独立さすることにした。建築事務所は常に相当栄えて、満鮮内地に亘り自分が設計した工事の写真目録は別冊にある。