浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

浜松市史 五

第四章 国際化の進展と新たな課題

第三節 教育

第六項 生涯学習とスポーツ

企業スポーツの盛衰

ヤマハ野球部 河合楽器硬式野球部
 ヤマハ野球部は昭和五十六年以降十二年連続して都市対抗野球の全国大会に出場、前述のように昭和六十二年に全国優勝、そして三年後の平成二年にも全国優勝を果たし、黒獅子旗を浜松に運んだ。凱旋したナインを迎えてヤマハ浜松店や松菱、西武の両デパートからは花吹雪がナインに降り注ぎ、市民会館や体育館での祝勝会には多くの市民が駆け付けた。昭和四十七年の初優勝以来、三度の優勝は全て川島勝司監督が率いた時のものであった。なお、広島カープで活躍した新美・池谷の両投手はヤマハ野球部の出身、また、多くのOBは大学や高校、地域の野球クラブの監督やコーチに就任して後輩の育成に当たっている。ヤマハと並んで都市対抗野球出場の常連であった河合楽器硬式野球部は平成十三年七月に開かれた第七十二回都市対抗野球大会で創部以来ついに初優勝を果たし、念願の黒獅子旗を持って浜松に凱旋した。しかし、会社の業績不振からそのわずか四カ月後の同年十一月末日をもって廃部と決まり、関係者はもとより市民に衝撃を与えた。平成十三年十一月二十四日、これまでライバルであったヤマハとの最終戦が浜松球場で行われ、十三対十二で接戦を制し、有終の美を飾った。実力のある三選手はドラフトでプロに転向、特に河合の初優勝に貢献した山井は中日に入団、一年目に六勝を挙げる活躍を見せた。一方、野球を諦め切れない十数名はほかの社会人チームに移籍、また、そのほかの人たちは平成十四年三月に浜松ケイ・スポーツBCを結成し練習に努めた。その結果、東海クラブ選手権で優勝するまでになった。また、同チームは地域の野球チームの指導にも尽力している。
 
ユタカ技研駅伝競走部
 スズキの陸上部は前述の「オリンピックと国民体育大会」のところで述べた通り、全国的な活躍を続けている。これに次いで本田技研浜松の陸上部の活躍も目覚ましい。浜松市に本社を置く本田技研工業系列のユタカ技研は平成四年四月に駅伝競走部を発足させたが、これは女子駅伝チームとしては県内第一号であった。外国での高地訓練にも取り組むなど、選手強化に力を入れ、各種の大会に出場している。
 
ホンダFC
 本田技研工業サッカー部はジャパンフットボール時代の二部で平成五年に優勝、同八年には同一部で優勝した。強くなった同サッカー部をJリーグに推進しようと十六万人の署名を市や会社に提出する動きもあったが、都田サッカー場の大規模な増設や浜松市の支援態勢などに問題が残り、平成十一年にJ2が誕生したが、これには参加しなかった。その代わり、この年に創設された日本フットボールリーグ(JFL)に所属、二年後の同十三年に初優勝を果たした。同十四年にはチーム名を本田技研工業フットボールクラブ(ホンダFC)と改称、この年も優勝するなど、実力はJリーグのチームに匹敵するほどになった。ホンダFCがホームスタジアムのホンダ都田サッカー場で試合を行う時は大勢の市民が応援に駆け付けている。