浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

浜松市史 五

第三章 産業と文化の調和した都市へ

第三節 教育

第六項 社会教育の進展

企業のスポーツ活動

河合楽器体操部 日本楽器 黒獅子旗 日本楽器卓球部 鈴木自動車工業陸上競技部 ホンダサッカー部 ヤマハ発動機サッカー部 ジュビロ磐田
 企業のスポーツ活動は親睦や福利厚生のための小さなクラブ活動から、全国大会やオリンピックなどを目指して行われるものもある。資金の豊かな大企業においてはグラウンドや体育館、合宿所などを造ってより強い選手を育てるようになった。河合楽器製作所で体操部が発足したのは昭和三十六年、同三十年代の後半には国体で優勝するまでになった。河合楽器体操部の名前が知れ渡ったのは塚原光男の活躍である。日体大在学中に出たメキシコオリンピックでは男子団体総合優勝、河合楽器に入社後はミュンヘン、モントリオールのオリンピックに参加し、金四、銀一、銅三を獲得するなど、〝世界の塚原〟と称賛された。特に跳馬での「塚原跳び」、鉄棒での「月面宙返り」の技は人々を驚かせた。オリンピック以外でも世界選手権や全日本選手権などで優勝を重ねた。ローマオリンピックの体操で団体総合優勝した鶴見修治が河合楽器の監督に就任、以後、河合楽器の体操部は素晴らしい成績を残していった。野球では社会人リーグの最高峰と言える都市対抗野球大会に河合楽器日本楽器が何度となく出場、日本楽器は昭和六十二年の大会ではチーム名をヤマハとして出場、二度目の優勝を果たし、黒獅子旗を浜松に持ち帰った(図3―21)。この年は日本楽器の創業百周年、十月には社名もヤマハ株式会社になり、会社にとっては記念すべき年となった。企業スポーツの目的の一つは社員の士気向上であるが、このような全国優勝はその最たるものと言えよう。日本楽器卓球部は戦後の昭和二十二年に始まるが、昭和四十五年には全日本実業団卓球選手権大会で優勝した。日本楽器卓球部の名前が全国に知れ渡ったのは小野誠治が入社して以来、小野は昭和五十四年の世界卓球選手権大会(ピョンヤン)で初出場・初優勝という快挙を成し遂げ、その名は世界的なものとなった。昭和六十一年には全日本卓球選手権大会でも優勝、以後、卓球の日本リーグでは通算百十六勝を上げた。日本楽器チームの活躍もあって浜松では数多くの国際大会が開かれ、中国、ソ連、カナダ、チェコスロバキアなどの選手が親善試合に訪れた。鈴木自動車工業陸上競技部が正式に発足したのは昭和三十年三月二十八日、ただこれ以前にも駅伝チームがあり、県西部では実績を上げていた。昭和三十五年一月二十四日に開かれた浜松・静岡間駅伝では常勝の大昭和製紙を破って初優勝、同五十年代半ばには全国各地の駅伝大会に参加し、良い成績を収めるようになった。同五十七年の中部実業団駅伝では二度目の優勝を成し遂げ、同じ年の全日本実業団駅伝では旭化成、鐘紡、リッカーなどの名門チームと争い、第五位に入った。この頃鈴木自動車は県内の駅伝では常勝チームとなった。同五十八年二月には名岐駅伝、浜名湖駅伝でともに優勝した。本田技研工業浜松製作所に「浜製にも従業員が一丸となって声援をするスポーツチームが欲しい」との声に応えてホンダサッカー部が発足したのは昭和四十六年のことであった。県のリーグ、東海社会人リーグを経て、昭和五十年には日本サッカーリーグ二部に昇格、同五十三年には初優勝、同五十六年一部に昇格した。以後JFL(旧と新)では平成十四年度までに四度の優勝を果たすなど、強豪チームとなった。都田町に大きなサッカー場が出来たのは昭和四十八年七月一日、後に有名になった北沢豪、関塚隆、村松大輔などはホンダサッカー部(ホンダFC)で活躍した選手であった。なお、磐田市に本社を置くヤマハ発動機のサッカー部は本田技研より遅い昭和四十七年四月の創部、同五十七年度には天皇杯全日本サッカー選手権で優勝、さらにJリーグ発足後の平成九年度にはジュビロ磐田として優勝に輝くなど強豪チームに育ち、多くの浜松市民が応援に駆け付けた。

図3-21 黒獅子旗を先頭に市内パレードを行うヤマハナイン