浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

浜松市史 五

第二章 高度経済成長と市民の生活

第一節 政治・行政

第二項 市民本位の政治

住居表示の実施

住居表示 街区方式
 政府は公共の福祉の増進に資することを目的に昭和三十七年(一九六二)五月十日に住居表示に関する法律を制定し、合理的な住居表示の制度とその実施について必要な措置を定めた。これによって住居は街区方式か道路方式によって表示することになり、これが決まると住民はこの住居表示を用いるように努めなければならなくなった。浜松市は第一回住居表示審議会を昭和三十八年十月二十五日に開催し、この席で市は住居表示街区方式を採用したいとの提案をした。そして同三十九年三月の審議会で市の新しい住居表示街区方式に決まり、実施に伴う市の中心は浜松城(天守閣跡)と決まった。
 街区方式とは、町名(必要な時は丁目)はこれまでのものを尊重し、街区は道路・河川・水路・鉄道線路などを境として戸数三十戸程度で区切り、市の中心に近い街区を起点に符号を付け、住居番号は市の中心に近い街区の角を起点に原則として右まわりに付けるというものである。これまで番地制度が長い伝統を持ってきただけに、新しい住居表示は自治会によっては消極的なところも見られた。このため、市は関係自治会のまとめ役として単位自治会ごとに協力委員を五名選出させ、約二百名で構成する協力委員会を結成、市当局と協力して準備に当たることとなった。
 市の住居表示実施計画によると第一次計画(昭和三十九~四十一年度)では浜松城を中心に、北は和地山中沢船越、西は広沢、鴨江、西伊場、南は国道一号線(駅前付近を含む)、東は馬込川で囲まれた地域の四十八町、第二次計画(同四十二年度以降)は馬込川以東の江東地区九カ町、第三次計画(同四十三年度以降)は駅南など十九カ町(このうち十町の一部は第一次計画にも入っていた)、合わせて六十六町に及んだ。こうして昭和四十年(一九六五)四月一日、市内初めての住居表示船越町と和地山三町で実施されることになった。船越町の街区数は四十二、和地山一丁目は十二、和地山二丁目は三十八、和地山三丁目は十六であった。船越町はほぼ町界に変更はなく、和地山三町はこれまでの和地山町を三つに分け、入り組んだ境界を合理的に手直しして分かりやすくした。
 市内二番目の住居表示は昭和四十年十一月一日に中沢町下池川町で実施され、これまで日本楽器敷地となっていた助信町、八幡町、元浜町の一部が中沢町となった。次いで西伊場町と南伊場町が同四十一年二月一日に、四番目は同年五月一日に上池川追分名残(一部)の三町で行われた。この時はこれまでの町名に大幅な変更があった。上池川町は城北一・二丁目、布橋一丁目、和地山一丁目に、追分町は布橋一・二丁目、城北二・三丁目に、名残町布橋一・二・三丁目、文丘町、城北三丁目となり、このほか中沢町の一部が城北一丁目に、富塚町の一部が文丘町に、和地山町の一部が城北二丁目、文丘町、和地山二丁目に入った。この住居表示により古くから親しまれた追分上池川名残(一部)の町名が消えた。同四十三年に誕生した鹿谷町はこれまでの亀山町と名残町などを合わせてつくったため、これまた亀山名残という由緒ある地名が失われた。その後も住居表示は着々と進んだが、市内中心部での住居表示は伝統ある町名を残したい、祭りの組織や商売に影響するなどという意見が多く、大幅に遅れた。住居表示により新しく誕生した町は前述のもの以外に西伊場町から独立した山手町、東名高速道路浜松インター付近の上石田町、下石田町、松小池町など五町にまたがっていた地域に出来た流通元町などがある。ちなみに、同四十七年八月一日に実施された蜆塚と山手の住居表示の時に『広報はままつ』で図2―4のようなお知らせが出された。
 浜松郵便局では新住居表示に伴い、新表示を知らせるはがき二十枚を対象全世帯に配布し、市でも変更手続きの指導や、街角や家屋に掲げる街区表示板や住居表示板の作成に当たった。

図2-4 住居表示の例とお知らせ