浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

浜松市史 四

第二章 復興への努力と民主主義

第三節 教育

第一項 敗戦直後の教育事情

二 中等学校

戦災による分散授業と移転

浜松工業学校 浜松第二工業学校 浜松商業学校 浜松高等女学校 浜松市立女子商業学校 誠心高等女学校 浜松第一中学校 浜松第二中学校 興誠中学校 信愛高等女学校 西遠高等女学校 浜松女子商業学校
 敗戦時に浜松に存在した中等学校(中学校・高等女学校・実業学校)は、十三校であった。十三校中で全焼したのは、県立の浜松工業学校(北寺島町)・浜松第二工業学校浜松商業学校は昭和十九年四月から校名を変更し機械科・金属工業科・電気通信科を設置 名残町)、浜松市立浜松高等女学校(松城町)・浜松市立女子商業学校(元城町の元城国民学校内)の四校で、いずれも昭和二十年六月十八日の浜松大空襲により焼失した。このほか、私立の誠心高等女学校(松城町)は四月三十日の空襲により木造校舎のほとんどが破壊され、さらに付近の民家からの飛び火により焼失している。また平田町にあった浜松淑徳女子商業学校の場合は、建物の強制疎開により四月二十五日に全校舎の除去を命ぜられ、姉妹校の西遠高等女学校の一部を借り受け、四月三十日までに移転を完了していたが、元の校舎はその後全焼した。これらの学校が授業を再開し、校舎を再建するまでの苦労を以下に記してみる。
 浜松工業学校では戦災後直ちに焼け跡の整理を行い、葦簾(よしず)張りの小屋を急造して仮の教室とし授業を続行、その後浜松機械工養成所、浜松第二中学校浅野重工業浜松第二工場、西遠織布会社工場等に分散疎開して授業を継続した。この分散授業解消のため、十二月十四日には、浜松市葵町にあった旧陸軍第百十三部隊の兵舎(今の本田技研工業浜松製作所内)に移転して授業を行った。これより前の十二月八日には連合軍の指令により航空機科を機械科Bとした。これは後に電気科と改めた。葵町の仮校舎から北寺島町に新築された校舎に移転したのは、浜松工業高等学校になった昭和二十三年九月一日であった。
 浜松第二工業学校は焼け跡で野天教育や林間教育をしていたが、昭和二十年十二月十七日から浜名郡神久呂村浜松陸軍飛行学校残存建物内(今の航空自衛隊浜松基地)で授業を開始、翌二十一年三月二十二日に学校名を浜松第二工業学校から静岡県立浜松商業学校と旧に復した。現在地に新校舎が落成したのは昭和二十二年十二月二十二日であった。
 浜松工業学校の仮校舎は「うす暗い旧兵舎を利用した教室の窓ガラスは割れたまま、冬の日は三方原の寒風が思う存分吹き荒れていた。」(浜松工業高等学校『わが学び舎わが師わが友』)という状態であり、第二工業学校へ通うには市内から徒歩で二時間もかかるなど、学びの環境は厳しいものであった。浜松高等女学校は、当時浜松市松城町(現在の浜松市立中部中学校の位置)にあったが、六月十八日の空襲による焼失後は、焼け残った記念館を本部として、記念館及び城北国民学校追分国民学校の校舎を借用して九月十一日から授業を再開した。その後、昭和二十二年一月十四日に浜松工業専門学校の跡地(現在地)に移転、グライダー格納庫を仮校舎として授業を行うことになった。その後、旧陸軍中部第百三十部隊の払い下げ兵舎を利用して校舎に改造する工事が行われ、昭和二十二年九月十七日に落成した。なお、元城国民学校内にあった浜松市立女子商業学校は、元城国民学校の焼失により昭和二十一年四月に広沢国民学校に併設されたが、昭和二十三年からの学制改革により浜松市立高等学校に併合され、同校に商業科が置かれることになった。
 誠心高等女学校では、地下室の鉄筋コンクリート部分を整備して、戦後の九月二十日から隔日授業を開始した。これは月・水・金に一・二年生、火・木・土に三・四年生が授業を受けるというものであった。その後、寄贈された軍需工場の建物を利用した仮校舎四教室が昭和二十一年三月に落成した。これについて誠心学園の『六十年の歩み』には「…生徒全員がとも角も毎日登校して授業が受けられるようになったのだから、とてもとても有難かった。涙が出る程だった。」と記しているが、分散授業にしろ、隔日授業にしろ当時は勉強できるだけでありがたかったのである。それは終戦までは軍需工場への勤労動員と恐怖の空襲などで、満足な授業が受けられなかったからである。
 全焼はしなかったものの、県立浜松第一中学校広沢町)や浜松第二中学校(西伊場町)、浜松農蚕学校(住吉町)、私立の興誠航空工業学校(高林町)などは校舎の一部が大破したり、壁や窓ガラスが破損するなどの被害を受けていた。なお、興誠航空工業学校は昭和二十年九月に授業を再開し、十一月に興誠中学校と改称し、学科を普通科に転換、五年制に復している。浜松第一中学校の九月の状況は「学校再開、空襲に次ぐ空襲で焼けなかったと云うだけで辛うじて立って居た校舎、畑になって居たグラウンドの整備、地ならし等。破れたガラスの代りにベニヤ板、雨漏りはひどい時には傘をさしての授業。」(浜松北高等学校『浜松北高百年史』)であったが、このような状況はほかの多くの学校でも見られた。信愛女子商業学校(昭和二十一年三月から信愛高等女学校 下池川町)は空襲で二棟が半壊、艦砲射撃で一棟が全壊したが、当時の状況について「何一つ物のない時代であつたにもかかわらず、職員も生徒も全員が、暗い気持でふさぎこんではいなかつたことが印象的である。平和が蘇つたことと新しい時代を切り開いていくのだという意欲に満ち満ちていたからだと思う。」(信愛学園高等学校『八十五年のあゆみ』)と記している。西遠高等女学校(佐藤町)も屋根・天井・ガラスなどの被害が大きかった。浜松女子商業学校(向宿町)の場合は、幸いにも被災を免れた。

図2-12 浜松高等女学校 兵舎払い下げ校舎の落成式