浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

浜松市史 ニ

第五章 交通・産業経済の発展と町や村の生活

第四節 産業経済の発展

新田開発

 五嶋新田源太夫堀 享保年間に浜松東南海岸地域の松嶋・福嶋・西嶋・江之嶋・鶴嶋の五か村が共同で開発したのが五嶋新田で、このとき水路として開削した堀割がいわゆる源太夫堀である。
 【海沿新田】源太夫堀の名称は、当時の浜松藩主松平資俊が五か村の願出により家臣小笠原源太夫基長に命じてこれを奉行させたので、村民がこれを徳として名づけたもので、その規模は馬込川から天竜川口にいたる三十五町余、開発された五嶋新田五十余町歩の田畑の灌漑用悪水放出用として、また浜松・掛塚湊間の物資輸送の水路として「高瀬舟為往来」とするところに目的があった。【新羅明神】工事は享保八年(一七二三)三月にはじまり同十一年四月に竣工したが、工事にあたって三反歩を除きこの五か村の鎮守神として小笠原家の祖神と信じられた新羅大明神を江州志賀郡から奉遷したのが現存する新羅神社である(『新羅大明神祠記』)。
 【新源太夫堀】しかしこの地方は馬込川芳川の川口に接し流砂のため埋没するにいたったので、文政年間に新しい堀割がその南側に作られ、天保七年に水野藩はこの新源太夫堀の川さらい工事を行なっている。これについては後述する。