浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

浜松市史 一

古代編

第二章 古墳時代

第四節 群集墳の成立

三方原古墳支群

半田町半田山C群(第11表①~②) 浜松日体高校の運動場整地中に二基の小形円墳が破壊され、同校の佐々木忠夫氏により調査記録がとられた。一基は円礫積みの小形石室が発見され、他の一基は何も遺存していなかった。年代もしたがってはっきりしない。その後運動場のつづきが浜松市開発公社の造成地として工事が始められ、C群第一号墳と第二号墳の二基が事前調査された。一号では石室の一部がわずかに遺存しただけで出土品はなく、二号では円礫積みの横穴式石室と、その石室を収める堀り方が調査された。副葬品として土師器二、不明銅製品一が出土したのみであったが、ほぼ七世紀前半という年代が推定された(向坂鋼二・大崎辰夫「浜松市半田山C単位群発掘調査概報」『静岡県埋蔵文化財要覧』Ⅰ)。
 
有玉西町千人塚平B群(第11表⑰)東名高速道路建設工事のため事前調査が行なわれた。この群はもと一四基であったらしいが、開墾のため半減していた。第一号墳は基底径二三メートル、高さ一・五(推定三)メートルの小さいながら二段築成の円墳であった。周濠が全周し葺石も鉢巻状に遺存したが、主体部は不明であった。他はいずれも内容がわからなかったが、三、四、五、六号の各墳は横穴式石室を構築してあったように思われた。主体部からの出土品は絶無であるが、第四号墳の裾から出土した須恵器は、六世紀末ごろのものである。一、二号墳は中期的な古墳であるが、他は後期に通有のものと思われる(向坂鋼二他「浜松市地蔵平B古墳単位群発掘調査概報」『静岡県埋蔵文化財要覧』1)。
 
中沢町常楽寺裏山曳馬野第二号墳(第11表㉚)土取り作業中白尾善義氏より通報を受け、半壊の古墳を調査した。小形の円礫積横穴式石室と、七世紀後半と推定される須恵器を発見したが、墳丘はあるかなしかの低平なものであったらしい(向坂鋼二「静岡県浜松市曳馬野第二号墳」『日本考古学年報』12)。
 
 以上わずか二〇基(年代のわかるもの九基)の古墳から、一六三基という全体の年代を考えることはとうていできることではない。そこで千人塚古墳を頂点として、群の構成や規模などを考慮しながら、これに年代のわかっている古墳を組み入れてゆくことによって、三方原古墳支群の年代的変遷を推定する他はないのである。その関係をつぎに表示しておこう。

(表)第11表 三方原古墳支群の変遷推定表