浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

浜松市史 一

古代編

第二章 古墳時代

第三節 浜松地方の中期古墳文化

千人塚古墳

 遠江地方全体の中期古墳のあり方は、磐田原台地東南部と、西縁部を中心舞台として展開している。代表的な古墳は、磐田市御厨の堂山古墳(全長一〇五メートルの前方後円墳であったが削平された)・同市寺谷銚子塚古墳(全長一一二メートル)・天竜市山東光明山古墳(全長八二メートル)・磐田市見付兜塚古墳(基底径八〇メートル)・同市新貝高根山古墳(基底径八〇メートル)などである。そして浜松市域に古墳が築造され始めたのは、こうした古墳時代中期になってからのことであった。その筆頭が浜松市有玉西町の千人塚古墳である。
 
 【立地】千人塚古墳は、県立三方原学園敷地の中にある。ここは標高四八メートルで三方原台地の東側の縁辺にあたる。この付近の台地は浸蝕を受けて谷が東方から入り込んでおり、このため千人塚のある部分は大きく突出した丘陵状をなしているが、古墳はその先端に近く築造されている。したがって古墳からは天竜川の平野部を一望のうちにおさめることができるし、逆に平野からはその姿をたえず見上げることができたわけである。
 
 【規模】その規模は、基底径四九メートル、高さ七・二メートルの大円墳で、墳丘は二段築成(墳丘の中腹に段状の平坦部がめぐる)、北西側の墳丘裾に幅一二メートル、長さ九メートル、高さ〇・七メートルの方形壇状の造り出しが付設されているのが、この古墳の大きな特色である。また北側には幅八・五メートルの周濠がある。墳丘面には葺石が一面に並べられていたと推定される。埴輪の破片も散乱しているが、これは段築面(中腹の平坦面部)に樹立されて古墳を一周していたものと思われる。千人塚古墳は、市内最大というだけでなく、天竜川以西の遠江地方でも最大の規模の円墳である。

第26図 千人塚古墳墳丘実測図(遠江考古学研究会実測)

 【調査】昭和二十三年(一九四八)、国学院大学考古学研究室では、この古墳の頂部を発掘調査したが、鉄鏃と須恵器片(これはおそらく平安時代の陶質土器を指す)を得たのみであったということである(山口欣二・市川和男「三方原瓢簞塚古墳発掘概報」『上代文化』第二〇輯)。昭和三十二年(一九五七)には、静岡大学教育学部浜松分校の歴史研究部が、この古墳の測量調査を行なった。その成果は公表されていないが、この時はじめて千人塚古墳に造出部が付設されていることを発見したようである。昭和三十九年(一九六四)十一月下旬になって、三方原学園の生徒が植木実習にさいしてこの造出部に生えていた楓の木を掘り取ろうとしたところ、いちじるしい鉄製品を発見した。その内容は、剣身三口・大刀身五口・鉄鏃一三〇本・鉄斧頭六本・鉄鍬先六点・鉄鎌一本・鉇三本・不明鉄器二点・石製斧頭四点というものであった(第27図下段)。出土状態は不明であるが、これらの遺物は狭い範囲にまとまって発見されたのである。