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苗木城・苗木領関係資料

大名遠山家資料



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<翻 刻>
 
管理番号 三八
 
遠山家文書史料番号一九九
 
1     画像(翻刻付)

 
諸 事 之 覚
        遠山友寿公
 
2     画像(翻刻付)

 
      諸事之覚
天明六丙午年十一月小廿五日天気
申ノ下剋於江戸芝将監橋邸弟
誕生[誕生日已来 廿七日トス]
十二月三日七夜之祝ひ有之名者
左吉ト  友随公ヨリ拝領之
御使近習頭纐纈善左衛門  也
同日夕麻布下屋鋪江引越
妙性院様同居也
 出産之節
  篦之役   加藤孝右衛門勝續
  乳付    同人妻うね
  用懸り   宮地金平正□      (虫 詳ならず)
 
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天明七丁未年四月晦日
友福公御逝去同五月廿日
苗木江御発棺
 
天明七丁未年十一月十八日御老中
松平越中守殿 [定信十一万石 奥州白川城]
御先手長谷川太郎兵衛殿を以丈夫届被
差出候但天明三癸卯ノ出生五歳也
同八戊申年四月十三日老中牧野
備後守殿[貞長八万石 常州笠間城江]長谷川太郎
兵衛殿を以嫡孫丞祖願書旦差出候
同四月廿二日昨夕牧野備後守殿より
奉書ニ天   友随公御登 城
於御白書院縁顕老中列座如御
願嫡孫丞祖被 仰出之
寛政二庚戌年六月廿七日従麻布
下屋鋪上屋敷江引越
 
(添紙)
 申十一月廿七日髪置祝
 白髪宮地藤兵衛より上之苗木
 乍罷在上目付詰合
 麻布江持参陶山丈左衛門
 戌十一月廿七日袴着
 
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 但部屋普請出来也
 跡乗留守居  河内佐仲正峯
寛政三辛亥十二月廿九日御用召名代遠
山織部殿登城縁組願済御書付御渡也
寛政四壬子四月十五日
大伯母悦姫[実父方 伯母]麻布下屋敷より岡部
外記長教寄合三千俵溜池邸江引越
即日婚姻相済
   跡乗 用人  神田惣八郎
○寛政二戌九月廿三日名乗友寿ト
 友随公より拝領之[生年五才 公辺八才]
 
 寛政四壬子年十二月十八日老中
 戸田采女正殿[氏教十万石江 濃州大垣城]御先手
 市岡丹後守殿親類差添岡部外記
 長教ニ而隠居家督願書進達
 同十二月廿二日昨夕奉書戸田采女
 正殿ヨリ来ル今日友随公御名代大田
 原飛騨守殿庸清友寿名代片桐主
 膳正殿貞影登 城於波之間老中
 列座隠居家督無相違被下旨戸田
 采女正殿被申渡候
  友寿生年七才公辺十才也
 同廿三日右御礼願書戸田殿へ片桐
 殿を以差出ス
 同廿八日右御礼ニ友寿名代片桐主
 
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膳正殿友随公御名代織田筑前守殿
秀錦を以申上ル
公方様江献上  御台様江
 御太刀一腰    白銀三枚
 紗綾二巻
 御馬一疋
  代黄金二十両
 右此頃西丸様は無之ゆへ献上物無之
 相良壱岐守殿長寛江幼年中諸事
 世話相頼候事也
 勤役重役之覚 ○印在江戸
   家老  ○宮地藤兵衛正長
   用人  ○神田惣八郎長祐
       ○吉田太郎市兼登
        鈴木金蔵重副
        纐纈善左衛門
        東 数馬常竹
   留守居 ○河内正左衛門正峯
 
寛政五癸丑年年始献上物ニ付而之
奉書正月十一日付ニ天二月七日
老中松平伊豆守殿[信明七万石 三州吉田城ヨリ]
家督后初而被相渡候
 但公辺十一歳ニ相成候故当年より始ル
同年四月十一日神田惣八郎吉田太
郎市於居間家老職へ申付候
 但友寿幼才ゆへ加増等之義ハ宮地藤
 兵衛より申渡し
 是家督后初而直ニ申付候也
同四月十七日宮地藤兵衛永詰出
情ニ付三十石加増遣し
 
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寛政六甲寅年四月廿三日
友随公御夫婦麻布御隠舘江
御引移同廿六日妙性院様麻
布より奥御殿江御引移同日自分
部屋より表居間へ引移
同年五月九日留守居河内正左衛門
正峯用人留守居兼役ニ申付候十石加増
遣之 十一月十八日下帯始祝有之
(朱筆)八月十五日より水痘相煩同廿七日酒湯
同年十二月十六日家老神田惣八郎苗木
江引越出立申候
同七乙卯正月十一日河内正左衛門へ二十石加増
同八丙辰正月十一日家老宮地藤兵衛江
三十石加増遣之
同九丁巳年二月九日奉初見
 
将軍家斎公江 公辺十五歳生年十二才
同道登 城亀井隠岐守矩賢殿
披露御奏者福原丹後守正□殿
  跡乗介添  河内正左衛門
  留守居
同年三月朔日神田惣八郎依病身
加判御免
同 四月廿三日ヨリ疱瘡相煩
同 六月廿五日端午御内書太田
備中守殿より被相渡候家督后初而ゆへ記之
同十二月十八日酉ノ下刻麻布裏
三軒屋より出火 友随公御隠舘并内
長屋二棟類焼御届吉田備中守殿
江差出同夜 友随公御夫婦様
 
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芝上屋布江御引移也右御届も同断也
 但奥御棟妙性院様新御殿[友寿住居 當時明キ也]
 江御引移十一月廿四日也 友隋公御夫婦奥
 ニ御住居ニナル
同十戊午    神田惣八郎
依病気隠居
同十一己未年正月十一日於苗木宮地
藤兵衛江
同十二月廿三日用人東数馬常竹
病気ニ付依願退役
同福岡村田瀬村与御領下野村ト山
論出入有之三月晦日百性共江戸着
同六月五日同断ニ付上野村百性共御呼出
 
 同八月十二日御勘定奉行菅沼下野守
 定喜於宅御裁許相済同廿一日百性帰村
 として江戸出立也
一来正月ヨリ政事向承給ハリ候様藤兵衛正左衛門申聞候
 (添紙)
  申元朝ヨリ礼式旧例之通受之
寛政十二庚申年二月十一日袖留
河内正左衛門正峯加冠藤田俊蔵[政綏 后政奥]
納戸役理髪勤之即日老若廻勤
 [跡乗介添 留守居]福田忠左衛門景氐
同二月十五日月次初而登 城
同道登城 松平豊前守仲雅殿
于時公辺十八歳生年十五才也
同二月廿日側用人加藤孝右衛門
勝續用人江申付候十石加増
同二月廿七日元服加冠河
内正峯理髪東八郎兵衛常紀納戸役也
 
 
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即日老若廻勤
  但二月廿一日元服伺ひ并御暇順年
  ニ付御暇願書御用番松平伊豆守殿江御
  先手□岩丹後守殿を以差出候
同三月十四日宮地藤兵衛於江戸病死
同四月廿五日昨夕老中連盟之奉書
安藤対馬守信友殿より到来ニ依之
今日登 城於御黒書院
初而在所江之御暇被下置寛々可致休息
旨蒙  上意拝領物被仰付旨於
楼之間老中列座対馬守殿被申聞候右
御礼於御黒書院申上之済而於御同
書院縁顕老中出座拝領物頂戴之
於同席宗門入念旨且来年参
勤之節人数少ニ可召連旨対馬守殿
 
被仰渡候於西丸同断拝領物水野出羽守殿
被仰渡候而拝領物相済夫より老若廻勤也
同閏四月七日右御礼老中戸田采女正
氏教殿江罷越并仮養子願書申達
  但岡部外記長教次男岩吉殿也
同閏四月九日江戸発駕
  供家老代用人 河内正峯
同閏四月十七日苗木城着
入部ナリ
同閏四月廿三日用人鈴木金蔵重福
家老へ申付十石加増
同閏四月廿八日用人纐纈善左衛門 城
ニ而中風再発同廿九日死去
同五月九日鉄砲方物頭大濱兎毛
庸永用人へ申付廿石加増
 
 
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同五月十六日初而本城江登 城案内
吉田兼登也
同六月廿一日河内正左衛門江戸於居間
留守居兼役差免年来出情相勤大慶
ニ思召依之帷子壱在所より申付候段ニ而
用人加藤孝右衛門申達候

同九月十三日東数馬常竹用人
江帰役申付候
○八月   日光山へ名代福田忠左衛門
寛政十三辛酉年
  二月十三日改元享和
正月六日妙性院様御逝去
同 十日東禅寺江御葬送
二月十一日加藤孝右衛門へ廿石加増
(朱筆)五日出水ニ付延引廿八日ニ成ル
 
同三月廿八日為参勤苗木発駕
四月七日江戸着
   供家老  吉田太郎市
四月三日去年戸田殿江差出置候仮養
子願書以使者返却有之直答也
  但已下御暇后差出候度毎返却有之度
  略之
同十五日初而参勤之御礼申上之
同十九日安藤対馬守殿より連名之奉
書を以鍛冶橋口御門番京極壱岐守
高賢代被 仰付細川長門守奥徳相談可
致勤仕旨也家督后初てゆへ為御礼ニ
老若廻勤即日御番所受取之
  番頭    陶山登兵衛
        加藤大蔵勝盈
 細川殿
 
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  番頭      熊谷次郎太郎
          桧山 栄藏
同 六月十四日細川殿就御暇為代
新庄駿河守直矩江被仰付候旨奉書
松平伊豆守信明より来ル
 新庄殿番頭   加藤治郎右衛門
         萩原 衛守
同 七月廿六日栄寿院様御逝去
同月廿九日東禅寺江御葬送
同 十二月十六日依召登 城叙
爵被 仰付官名刑部少輔ト如伺相済
 
享和二壬戌年正月元日年始初而
登 城御時服拝領之
 但隔年登城ノ度毎略之
 
同 二月十九日位記口 宣高家
中条山城守信教於宅頂戴之
同 四月廿一日依召登 城在所江之
御暇被仰出諸事如例
同 四月廿二日鍛冶橋御門番代京極
壱岐守江被仰付之
同 四月廿六日江戸発五月四日苗木
城着  供 大濱兎毛庸永
 
享和三癸亥年三月廿五日苗木発駕
四月四日江戸着
   供  東権右衛門常竹
同 廿二日参勤御礼申上之
五月六日昨夕老中連名之奉書
牧野備前守忠精殿より到来御用召之処
 
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病気ニ付出仕断夕方留守居呼出ニ付
留守居罷出添役河内尉藏正俸候処公用人
安田多膳を以書付被相渡候当秋駿
府加番京極壱岐守高賢代り被仰付役
高一万石を以可相勤旨也為御礼可
及直勤処不快ニ付名代岡部外記[長教]
老若廻勤也
相番
  大久保隼人代り
        松平岩之助右孝
          五千五百石永田丁
  伊東主膳代り
        南部主税 信憐
          五千石カウシ丁
五六月中麻疹流行
五月  友随公御夫婦様ともに麻
 
疹御煩同十三日麻疹相煩
七月八日於苗木用人東権右衛門常竹
家老職江申付十石加増以書付遣之
七月十一日御加番ニ付而於評定所
誓詞相済
同十六日側用人中原平助師奥駿府
中公用人申付候
九月朔日駿府江之御暇被 仰出時
服四羽織頂戴之
同日於御本丸初奉見
大納言家慶公
同十六日於御城駿府江奉書并御扶
持方御証文渡ル
同十九日江戸発駕同廿三日駿府
町宿難波屋庄藏宅江到着即日御城
 
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入同廿五日朝町口御番所京極高賢
ヨリ受取之勤番也
 供
 家老  東権右衛門常竹 用人河内左中正峯
 [側用人 公用方] 中原平助師奥 [弓方 物頭] 棚橋亘理朝
 [鉄砲方 物頭] 小池傳兵衛房質  鑓奉行加藤大藏勝盈
 平士 神山伊津喜成房  同上 安田傳之丞英通
 同  神田義助長良
 苗木留守家老
  吉田太郎市兼登   鈴木金蔵重副
 江戸同用人
  加藤孝右衛門勝續  大濱兎毛庸永
享和四甲子年
  二月十九日改元文化トナル
     駿府ニおゐて足軽共備
 
稽古一覧致候五月
正月十七日久能山拝礼御土器
神酒頂戴之
五月九日当秋加番左之衆中へ被仰付候
  自分代
         山内遠江守豊氏
  松平岩之助
         藪三郎左衛門
  南部主税代
         大嶋兵庫[義徳 后肥前守]
奉書同十三日到来
五月末より足痛不相勝処追々全快也
九月廿三日山内殿病気ニ付伺之上ニ而
家老仙石左近右衛門 人数召連駿
府へ到着同廿五日右同人江町口御番所
 
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引渡直ニ発足
 但永代之奉書山内殿持参ニ而廿三日拝見
 可申先格ニ候へとも家来計ゆへニ加番藪
 三郎左衛門殿持参依之廿五日受代相済候
 後小吉田立場ニ而拝見也
同廿八日依願相州鎌倉八幡宮并
江ノ嶋弁財天江参詣同晦日江戸江帰
府 供 [家老代 用人] 河内正峯 用人中原師奥
  東常竹其下武器等ハ苗木へ直ニ駿府より
  遣之    十月三日京都よりお床着
同十月十五日帰府御礼申上之
 
同十一月朔日依召登 城在所
江之御暇被下置候
  但御暇順年ゆへ御暇願書御用番江
 
     御先手木原長三郎殿を以
  差出候
同十一月四日江戸発駕同十三日苗
木城着 供 用人 大濱兎毛庸永
文化二乙丑年四月四日為参勤苗
    (朱筆)道中差支ニ付三月廿五日延引四月三日之
木城発駕同十二日江戸着 申出候処出水ニ而
            四日ト成ル
  供家老     鈴木金蔵重副
同十五日御礼
同九月十日於苗木妾腹女子出生之処
即日死
 妾京都之産紀野式部雉信娘名
 由賀去子年九月下京也
同十二月十三日用人河内左中正峯
於江戸病死
 
 
14     画像(翻刻付)

 
 
文化三丙寅年正月廿二日側用人
中原平助師奥用人江申付二十石加増
同三月四日午ノ刻芝高輪午町より
出火及大火上屋布住居向長屋共
不残類焼[昼未ノ 刻也]翌五日四ツ時過ニ至テ
下谷浅草両国橋川上ニ而鎮火
友随公御夫婦自分共ニ麻布下屋
布江立退同所ニ住居也御届も同
断也戸田采女正殿江以使者御届也
同三月十五日依召登 城在所
江之御暇被仰出両丸より如例拝領物有之
 但大目付井上美濃守利兵衛殿より留守居呼出ニ而
 類焼後ニ付御暇都合御尋有之三(?)月十日也
 
 同十一日留守居を以此節御暇被下置候方
 都合之旨同所へ御届也
同三月廿九日江戸出立四月八日
苗木城着
 供用人中原平助立帰り申付尤在所より
 迎ひニ出合ふ処迄と申付候処桶川宿へ家老東
 権右衛門来ル依而同所より江戸へ帰ル
同六月  江戸普請用掛家老吉
田太郎市兼登已下苗木出立
目付小川惣助  普請奉行山内伴兵衛

 
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文化四丁卯年正月十一日於苗木武
頭陶山登兵衛用人役へ申付廿石加増
同二月六日於苗木那木別館妾腹
女子出生[申ノ 下刻]産母お由賀
同十五日七夜祝之名お熊ト東
常竹ヨリ上之
同三月十四日熊姫初而登城部屋江
引越同 廿七日宮参神明宮竜
王  六月十七日箸揃祝ひ有之
同三月十八日江戸屋布住居向棟
上也
同三月廿五日参勤出立去年来癬
瘡ニ而旅行難致ニ付延着御届
同五月廿四日ニ癬瘡快方ニ付為参
 (朱筆)廿二日発駕申出候処道中差支ニ付廿四日ト成ル
 
勤苗木発駕道中川ニ差支有之
 柳瀬川出水倉賀野ニ半日小山川出水本庄ニ五日
 戸田川出水蕨ニ三日止宿道中十五日目江戸着也
六月八日江戸到着
  供   陶山高衛
同月十八日参勤之御礼申上之
○爰へ入
同十月  騎射小笠原平兵衛常方
同平八常奥へ門入
     ○七月二日吉田太郎市江戸出立
文化五戊辰年四月十八日御暇
同四月廿二日江戸発駕
五月朔日苗木城着
   供   陶山高衛
同閏六月十一日縁組願書御用番
 
 
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牧野備前守忠精殿へ御先手木原兵三
郎殿京極殿取次深尾八太夫殿を以
差出
同閏六月十六日於江戸家老鈴木金
蔵重副病死
同七月廿五日縁組願済登城
京極高中殿名代京極壱岐守高賢殿
自分名代岡部外記長教殿也
同十月十八日於苗木平給人鈴木
靭負重賢用人役申付廿石加増
文化六己巳年正月廿四日夜子之刻
於苗木那木別舘妾腹女子出生
産母お由賀
 
二月四日七夜祝之名お慿与大濱
庸永より上之
二月廿八日初而登城部屋ニ住居也
      宮参
   五月廿八日箸揃
同三月廿五日苗木発足四月四日
江戸着 供用人 鈴木重賢
四月十五日参勤之御礼不快以使者申上之
同月十九日老中連名之奉書青山
下野守忠裕殿より到来日比谷口御門番
相良志摩守頼徳殿代り被 仰付之
札番
 毛利讃岐守政時殿 [椋梨弥兵衛 平野治右衛門]
 此方番頭     [宮地左傳治正彬 中原仲師尹]
 
17     画像(翻刻付)

 
同六月廿二日岡部外記長教殿死去
六月廿四日未ノ剋麻布御前様御病
気被及御大切同廿九日御逝去
      東禅寺江御葬
送 翌巖院様与御法号也
御日取廿五日トス
九月  於苗木陶山高衛病死
十一月十五日於苗木お熊髪置祝之
十二月十五日毛利讃岐守殿領分損
宅有之ニ付御番所御免為代織田
右衛門佐長宇殿江被仰付候相談可致勤仕
旨奉書青山下野守殿より到来
 織田殿番頭 [隠岐仙四郎 山川降助]
文化七庚午年正月廿八日奥向住
居向普請鉜始四月十五日棟上
 用懸用人鈴木靭負重賢
     目付東八郎兵衛常紀作事奉行佐々木
     半兵衛
同二月十一日縁女お琴芝屋布江引
越尤内々ゆへ御届等無之
同月十五日松雲院様岡部外記奥方
久々御病気ノ処被及御大切候十六日御死
去也御日取十七日トス
四月十五日奥普請出来ゆへ引移也
四月十九日依召登 城在所之
御暇被下置如例
同廿日日比谷口御門市橋下総守長明(アキ)殿
江代り被仰付織田殿代り土方大和守義苗殿也
 
18     画像(翻刻付)

 
 四月廿一日江戸発足
 同月廿八日苗木帰城
   供  鈴木靭負重賢
 同六月十八日於苗木吉田兼登
 年来出情ニ付廿石加増遣之
 武頭小池傳兵衛房質用人役へ
 申付廿石加増
 文化八辛未年二月六日於苗木那
 木別館妾腹男子出生[夜子 上剋]産母
 お由賀 同月十五日七夜祝之名
 篤丸与小池房質より上之
 同    初而苗木江登 城
 二月十七日京極若狭守冨中殿
 御逝去
 二月廿六日於江戸用人大濱兎毛
 庸永病死
 三月十八日弓方物頭神山伊津喜成房
 用人役申付廿石加増
 三月廿四日篤丸病気甚 [十二日より病発]
 為保養同廿五日用部屋欄干上江引越同
 日  死去日取廿四日ニスル
 同夜雲林寺開山塔側江葬
 法名 観光正襃禅童子
 三月廿八日為参勤苗木発駕
      (朱筆)廿五日差支ニ付廿八日ニ成ル
 四月六日江戸着
    供用人  小池房質
 同十五日 参勤御礼申上之
 
19     画像(翻刻付)

 
 六月十七日明日京極友三郎高朗殿
 妹近江守方へ引取即日婚姻相整旨
 御用番青山下野守殿江以使者御届
 同月十八日結納京極殿江使者
 [家老代 用人]加藤孝右衛門勝續[副使 留守居]福
 田忠左衛門景氏
 岡部宗三郎長祥殿より琴姫より土産物
 之使者武田東兵衛
 京極殿より使者[家老代 用人]高木与右衛門
 [副使 留守居]近藤治部左衛門
 今八ツ時相盃七ツ時色直祝言相済
 七月朔日婚姻之御礼巻物二巻
 献上之登城首尾克申上之
 
 京極殿幼年故名代京極加賀守
 高有殿を以被申上之
 
 文化九壬申年四月十八日御暇
 同月廿日江戸発足
 同月廿七日苗木城着
   供 用人  小池房質
 江戸出立三月廿七日留守中用人代側
 用人福田次郎右衛門景氏へ申付候尤当
 年一ヶ年也
 文化十癸酉年二月四日夜
 於苗木那木別舘男子出生産母前ニ同
 同九日病死雲林寺開山塔側葬
 
20     画像(翻刻付)

 
 三月廿五日苗木発足
 四月三日江戸着
   供 用人 神山伊津喜成房
 同月十五日参勤之御礼
 同月廿三日月番松平伊豆守
 信明殿より連名之奉書を以幸橋
 御門番京極壱岐守高賢殿代り
 被仰付之
  相番 松浦織部正良殿代り
         毛利讃岐守政時殿
  毛利殿番頭  山名八兵衛
         河合次郎衛
  此方番頭側用人鎗奉行兼
 閏十一月八日麻布付用人へ転役 福田次郎右衛門景氏
                伊藤市之進助舎
 閏十一月八日番頭助役十二月  中原弥學師教
 十八日槍奉行へ申付
 
 十一月十五日奥方袖留
 十一月十五日於江戸用人中原平助
 師奥病死
 閏十一月三日於江戸用人神山伊津喜
 成房病死[勤番為代十二月十三日靭 負出府ナリ]
 同月八日[側用人 鎗奉行]兼福田次郎右衛門景氏
 麻布附用人申付ル
   但加判ニて無之
 十二月廿七日毛利讃岐守殿領分損
 毛ニ付御番所御免為代谷大学頭
 衛萬殿江被仰付候ニ付相談可致勤仕旨
 奉書土井大炊頭利厚殿より到来
  谷殿番頭    田丸忠兵衛
          伊藤矢柄
 
21     画像(翻刻付)

 
 文化十一甲戌年二月四日夜
 於江戸麻布別舘男子出生産母お浦
 但至而内分也  同十一日七夜夜祝之
 名加藤賀七郎与水野甫囿忠美
 上之
 二月十一日刑部少輔事美濃守与
 改名土井大炊頭殿江伺之上被仰付之
 四月十九日御暇
 同廿日幸橋京極壱岐守高賢殿
 江代り被 仰付之
 同廿一日江戸発足
 同廿八日苗木城着
   供用人  鈴木重賢
 
 名倉村百姓御領水戸野村百姓与村
 木売買出入ニ付御呼出有之八月十
 七日江戸着
 
 
 文化十二乙亥年正月十一日於苗木
 武頭中原仲[師尹 后権佐ト改]用人役へ申
 付廿石加増
 正月十六日於江戸松平伊豆守殿より
 当四月日光御法会ニ付道中人
 馬差支ニ付二月下旬四月下旬之内
 
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勝手次第参勤致旨御達有之
二月八日ニ朔日付ニて二月下旬
参勤之御届二月廿七日付にて三
月五日ニ病所ニ付延着四月下旬
参勤之御届差出
四月廿六日苗木発足
五月五日江戸着
  供 用人  中原 仲師尹
同月十五日参勤御礼
同月十九日  於苗木那木別
舘女子出生産母お由賀
同   七夜祝之名お啓与
水野甫囿 上之
 
同     宮参
六月十八日奥方改名お綱与
 但公辺ニ御同名出来ゆへ也
文化十二丙子年四月二日
家齊公右大臣御転任
家慶公右大将御兼任ニ付束帯
ニ天登城
四月廿一日御暇
同廿三日江戸発足
同 晦日苗木城着
   供   中原権佐師尹
閏八月二十八日加藤賀七郎江戸発足九月
 
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十日苗木用屋布へ到着
  供目付塚本文平景次医師渡辺衷筒
  其外女中共両人也
文化十四年丁丑年三月廿五日苗木
発足四月二日江戸着
  供 用人  鈴木重賢
四月十三日参勤之御礼
同月十六日老中連名之奉書青山
下野守殿より到来幸橋御門番
池田山城守政恭殿代り被 仰付之
 相番
   青木甲斐守一貞殿長病引込也
   番頭  森本仙右衛門
       信太 男 也
  此方番頭 小倉猪兵衛景朴
       中原弥学 師教
七月十三日於苗木加藤賀七郎
病死  雲林寺開山塔側葬
法名 定海会澄禅童子寿四才
九月十五日榊原家遠山九郎次郎
退身家名断絶屋敷へ来ル麻布
ニ住居
      苗木江登ル山形右門ト
改ル
 
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 文化十五戊辰年四月十九日
 御暇同廿日幸橋御門代り
 建部内匠頭[政 淳]殿へ被仰付青木殿
 代り立花和泉守殿へ被仰付之
 四月廿一日江戸発足
 廿八日城着之処上地川出水ニ付
 落合駅ニ滞留
 同廿九日苗木城着
   供   鈴木重賢
 五月四日年号改元
 文政ト被 仰出之
 十月十七日十八日十九日
 雲林寺殿二百年御遠忌法事
 於雲林寺修行有之同廿六日
 右祝ひ諸家中登城
 十月廿八日於江戸妾腹女子出生
 産母お組江戸
 同五日名お綏与河内左中正俸より
 上之同十日七夜祝之
 十二月朔日芝神明田町八幡宮
 江宮参相済
 
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文政二己卯年正月十一日於苗木
家老吉田兼登年来勤功其上
近年病所ニ而可為難義ニ付江
戸勤番差免ス
弓方武頭伊藤市之進助舎用人
役へ申付廿石加増
三月廿九日苗木発足
  但尾張殿通行ゆへ廿五日出立見
  合也
四月八日江戸着
  供 用人  伊藤助舎
同月十五日参勤御礼
 
九月二日夜亥ノ上刻於苗木
那木別舘男子誕生産母
お由賀
同月十一日七夜祝之
名貞治郎与家老東常竹より
 
  用懸り [常竹忰 目付] 東数馬常贇
      乳付  同人 妻
犬地村福地村赤河村蛭川村黒川村
中ノ方村飯地村切井村百性共
尾州御領久田見村与山論ニ付御呼出
ニ付罷出九月十四日十九日両日ニ着
御懸寺社奉行水野左近将監忠邦殿
ナリ十一月二日双方地所不分明ニ付御見
 
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分被 仰出候
右ニ付遙々百性共帰村也
 十一月六日八日十二日出立也
留守居側用人兼河内左中正俸右山
論一件ニ付苗木江立帰り申付
十一月十二日江戸出立同廿六日苗木
江着論所内見分致其外内
向相済候十二月十日苗木出立同
廿五日江戸着
  但見分所致は苗木出立夫より見分
  之上名古屋へ廻り東海道帰
  着也
 
文政三庚辰年二月三日老中
月番土井大炊頭殿[利厚七万石江 下総古河城]
御先手仁賀保孫九郎殿[西丸御持箆 二千石]
を以在所妾腹之男子貞治郎事
出生之砌虚弱ニ付御届見合置候得共
此節丈夫ニ相成候ニ付御届当辰五才
之積且此已後奥方ニ男子出生之節者
次男可仕旨依之御暇之節以来仮養子奉
願間敷段御届書進達相済
 但文化十三丙子ノ出生五歳也
三月十五日朝卯中刻於江戸芝将監
橋邸女子出生産母お久美
同廿一日名河内左中正俸より上之
 
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於□(ミサ)四月三日七夜祝之
三月廿二日貞治郎宮参神明
宮日比野村八幡宮成道寺龍王権現江参詣
相済
四月十八日於□(ミサ)宮参芝神明宮田町
八幡参詣相済
四月十八日御暇
同廿日江戸表発駕
同廿七日苗木城着
  当年御暇より仮養子願書不差出
  相済也
四月廿日久田見村与犬地村福知村
山論所江地所為御見分御代官大原
四郎右衛門殿古山善吉殿手附梅澤仙八
町田新右衛門出役久田見村へ止宿
同廿一日使者宮地左傳治ヲ以一種相贈
候処品々受納無之左傳治へ預り候由
同日より見分方相始ル五月三日福知村
庄屋方へ引移候而止宿也同五日左傳治
滞留中見廻使者相勤候一種送候品々前ニ同
受納無之同十五日見分相済ニ付
同十六日左傳治使者相勤候一種相送候
受納無之同十七日福知村出立也
左傳治并支配代官佐々木半兵衛
帰村也
 
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八月寺社奉行懸り水野左近将監
殿より以差紙百性共御呼出有之ニ付
同十七日福知村庄屋辻市左衛門同組(クミ)
頭代皆平犬地村庄屋代山田栄左衛門
組頭数右衛門蛭川村組頭田口勘左衛門
是ハ懸り合七ヶ村惣
代兼        出府苗木出立
郡奉行宮地左傳治用向ニ付江戸表
江立帰申付同日出立也
道中川支等ニ而同廿七日夜ニ入左
傳治始百性共不残江戸到着
  廿八日より尾州家より留守居へ内裁
  之懸合有之此方者承知不致候
  事長く入用ニ無之ゆへ略之
九月二日辰ノ口評定所へ百性
 
共御呼出ニ而御裁許相済
  但先年より之出入内済預り山等之義ハ
  取捨此度見分之節杭打候場所之
  内二十三番之杭より五百八番之杭江引付
  杭木通り五百四十三番杭へ戻り訴訟
  方ニて長曽川相手方ニて清津川
  与申立候川筋を限り東ノ方ヲ犬地
  福地両村之内と心得右境より西ノ方
  ハ廿三番杭より杭木通を初杭江戻り夫より
  いノ印一番之杭江移り杭木通を同印
  二百三十三番杭迄同所より四百九十九番
  杭江見通し久田見犬地三ヶ村入
  会山与極同所ニ有之候相手方家居
  并双方田畑者是迄之通差置右最
  寄之木品并槻石楠花其外古木
  社木並木之類者不伐採天明之度
  扱人より預候證文者不用ニ心得此後
  入会場ニ而切添切開等不致長曽橋
  破損之節者久田見村役人為立合福
 
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  地村外六ヶ村ニ而普請致し双方江取
  置候鎌鋸其外共夫々江可相返旨
  且訴訟方之もの共儀一紙目安之内
  相手兵左衛門を十左衛門又左衛門を由藏と
  認又者先達而死失之者等をも一同相
  手取候段糺方不行届不埒ニ付急
  度御叱被置候旨御裁許之上御
  清書久田見村庄屋勘右衛門組頭清左衛門
  百性代善三郎犬地村惣代庄屋栄左衛門
  組頭数右衛門福地村惣代庄屋市左衛門
  組頭皆平飯地村中之方村切井村
  赤河村黒川村上田村蛭川村右七ヶ村
  代兼蛭川村組頭勘左衛門右之者共
  印形致候而請書御評定所へ差出候事
尾州御城附此方留守居河内左中
御呼出候而田所ニ而右之段之被仰渡候後
領主江可申聞旨被 仰渡ニ而相済
  在邑ニ付承知之御請  月
  水野殿へ左中使者相勤候
九月十九日宮地左傳治去ル八日江
戸出立ニて苗木江帰着
同 廿日去ル九日江戸出立ニて山論百性
共不残帰着
十一月廿六日右村々庄屋并役人共江戸
表江罷出候者共并右留守中出情又者当
夏地所御見分之節出情之者共へ夫々
褒美等遣之
  委細別ニしるす
同廿八日宮地左傳治堀尾専八郎并
懸り代官三人江同断委細別ニしるす
 
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文政四辛巳歳
  正月十五日
戸川弾正達寿殿より家老代中老古田
忠兵衛副使留守居浅沼長右衛門を以
お熊事縁組被致度旨被申込候家
老代用人加藤孝右衛門召出及愛拶候尤
在所江可申遣旨也
  同廿三日
戸川弾正殿江家老代用人加藤孝
右衛門勝續副使留守居河内左中
差遣お熊事弥望ニ可任旨返答
申遣尤在邑中ニ付兼而申付遣
置候旨ニて相勤候
 
夕方戸川殿より使者浅沼長右衛門を以
愛拶被申越候
  正月廿五日
加藤孝右衛門勝續江  お熊婚姻用
懸り江戸於居間申付候旨権佐口達
中原権佐[用人詰合 師尹]用懸同様申
談候様[目付 詰合]東数馬常賢[賄 詰合]新田
作左衛門ト用懸り申付候数馬へハ詰越も申
付候婚姻式用懸り石川彦兵衛へ申
付候
  右三月二日便之節江戸表江申付候
 
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  二月八日
戸川殿より両赦申合候使者用人
磯井政右衛門を以申越候此方より河内
左中使者相勤候干鯛取遣はし
  江戸表より申来候
 
  三月廿五日
苗木発駕之処上地川出水ニ付
渡船無之ゆへ延引
 
   三月廿七日
苗木発足
 
   四月七日
江戸到着
 但昨六日着之処 右大将様高田場
 御成故往来雨ニ付蕨宿へ止宿也
 供用人 小池傳兵衛房質
四月十五日参勤之御礼登 城
同 十九日老中連名之奉書を以
日比谷口御門番土方大和守美苗代り
被 仰付之阿部備中守正精殿より奉書
到来也
  相番
大田原飛騨守殿愛清  番頭平野又六
 池田山城守政恭殿代り
 四月十九日被仰付之
 
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織田左衛門佐殿長宇
 六月十四日より被仰付之
此方番頭   [棚橋惣馬 中原弥学]
織田殿同   [平手覚馬 吉田美技右衛門 小笠原金八]
同日去ル八日苗木出立致候
お熊江戸到着
 即日着御届阿部備中守殿へ以使
 者申達候
 供目付代土屋四郎左衛門景美小栗
 玄顯  付属霞上三郎正求
 女中 [福田十郎太夫母 老女代]しつ 側女中そよ
 中居一人やを其外下目付已下
  但右女中三人は二月廿二日江戸出立三月
  二日苗木へ着徒士目付小栗三郎四郎 差添
  迎ニのほり此度供ニて下着也
 
四月廿一日御用番阿部備中
守殿対客へ御先手設楽甚三郎殿
戸川弾正殿取次同細井出雲守殿
を以お熊縁組願書差出候処落
手有之
 
今日  五月廿一日昨夕老中連名之
扣   奉書土井大炊頭殿より到来
山内  四ツ時御用召ニ付登 城
遠江  於御白書院縁顕老中列座戸川弾
守殿  正殿一所ニ罷出候処御用番土井大炊
へ頼ム 頭殿より縁組如願被仰付旨口達自分
    より難有旨申上退引西丸へ登城也
 
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 六月五日戸川弾正殿よりハ就吉辰
 お熊江結納被相送候右使者[中老 本使]
 古田忠之丞[副使 留守居] 浅沼長右衛門来ル
 及直答候
 従此方も右答礼之使者[用人 本使]小池
 傳兵衛[副使 留守居儀代り]福田十太夫差遣候
 同日お熊初主道具厨子黒棚
 書棚長持七箪笥三屏風三釣
 台等遣之右使者石原伴右衛門
△六月五日お熊鉄漿染祝ひ有之
 六月廿三日午ノ刻お熊事
 戸川弾正殿江引移即日婚姻
 相整昨廿二日右御届月番阿部
 備中守殿へ以使者申達候
 今朝彼ノ方より輿迎本使古田忠之丞副
 使浅沼長右衛門来ル
 午ノ刻おくま出宅ニ天引移相済
   輿渡 家老代   加藤孝右衛門
   [具福渡 跡乗兼]   河内左中
 戸川殿ニハ忠之丞長右衛門両人ニ天請
 取相済
 同廿五日戸川殿ニ而婚姻之式有之
 故孝右衛門左中両人罷越候
  但廿六日ハ故障之義有之ゆへ今日ニ相
  成申候
 同廿七日朝皆子餅取置セ五ツ時お熊
 里披四ツ時弾正殿聟入夕方自分唱入之式
 相済
 
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△六月十四日 老中連名之奉書を以日比谷
 御門大田原殿御暇ゆへ代り織田左衛門佐殿
 へ被 仰付候ニ付可相談旨申来候
 
 七月五日暮合友随公御病気之
 処被及御大切候
  但六月十七日御病発也七月
  五日■■御差重ニ付早朝より相詰候
  昼過御目見申上候処御丁重尓御
  愛拶等有之 奥事も青山ニ被参候
  同断用人小池傳兵衛ニも罷出申候
 同八日午之中刻御卒去
 同十八日御遺骸雲林寺へ差
 遣度段願書青山下野守殿へ御
 書設楽甚三郎殿を以差出候処
 即夕如願御付札相済
 同廿八日
 寶巌寺様御遺骸麻布御
 殿より御発棺
        供側用人
  道中用人代  中原弥學
  江戸立帰り申付候 師教
八月十二日雲林寺へ御着翌十三日
 御葬送相済
  道中釜橋落往来雨馬籠ニ一日
  上地川出水ゆへ落合ニ三日御逗留也
 
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 七月六日夜亥中刻那木
 別館ニ而お由賀安産之処         (虫食い詳らかならず)
 男子出生
 同十二日七夜祝ニ付産髪垂之
 名彪(ヒテ)五郎与付申候事
 九月十五日  名山中九八郎重雍より兼而申
 七夜祝之   付置候事ゆへ差上申候事
        産髪
  翌午年四月十一日に宮参相済候事
 
 九月十四日山論杭打論所地改手附御
 普請役格梅沢仙八論所手付青木貢一
 久田見村へ出役十八日福地村へ引越同廿二日同
 所出立なり 杭打訴訟方より相願ひ候筋
 有之杭打無之只御吟味而巳也
 十二月八日福地村市左衛門犬地村栄左衛門
 右件ニ而江戸出府來也
 文政五壬午年
    正月十一日
 於江戸留守居側用人兼河内左中
 正俸用人役江申付十石加増
    同十八日
 用人中原権佐師尹去年来病気
 役如願於苗木隠居申付三人扶持遣之
 鉄砲方物頭小倉猪兵衛景朴用
 人役へ申付加増廿石遣之旨従江戸
 直筆書付遣之
 
    二月十七日
 江戸芝邸ニおゐ天午ノ中刻お久見
 安産女子出生
 同廿三日七夜祝名斐(アヤ)姫河内
 
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 正俸より先役中ニ付置候付上之
 
 四月十九日御暇
 同 廿日日比谷御門土方大和守
 義苗江相渡ス
 同廿三日江戸発足
 五月二日苗木城着
 五月廿三日東権右衛門常竹年来出情
 ニ付本知百石ニ直し遣候
 九月十三日於□(ミサ)改名お錐(トシ)
 お錐十一月十五日髪置祝之
 山論所
 再見分被仰出候事
 十二月廿八日寺社奉行御掛り
 水野左近将監殿宅ニて百性
 共へ御達有之翌春未正
 月六日百性共江戸出立
 翌廿九日留守居同所へ呼出ニ而
 寺社役斉藤半左衛門を以御書
 取御渡
 山論所ハ一旦御裁許相済候処双方
 領主旧記之趣申立難相聞
 義も有之候間猶又見分吟味として
 寺社奉行調役等被差遣候ニ付
 於彼地双方并引合之もの其外
 品ニ寄隣村等之ものハ勿論地所をも
 相糺候義可有之候間其筋之役
 人中へ通達有之候様御達有
 之
 
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右ニ付伺書等も差出候事有
之不用ゆへ不記之
 
 
文政六癸未年
 正月十一日於江戸用人役河
 内左中へ廿石加増之
 
 正月十二日より戸川殿奥方
 疱瘡被相煩近日順療也
  廿一日酒湯済
 正月十六日江戸ヨリ百性共着
 二月十二日江戸表より山論
 用向ニ付河内左中立帰
 とし天苗木へ着
 
 二月十八日水野殿江留守居
 呼出ニ而御書取御渡
  論所為見分吟味寺社奉行
  吟味物調役彼地へ罷越候節
  時宜ニ寄候テハ其筋之御家来
  心得方をも為承候義も可有之左
  候節ハ調役より呼出候義可有之義
  御達し也
 
  右ニ付伺書等差出候□□略
 
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 二月廿三日就吉辰
 貞治郎袴着彪五郎髪置
 祝之 用懸 山中九八郎
 
 三月八月見分之衆着前ニ付
 宮地左傳治代官佐々木半兵衛
 村方へ出役
 同夜大井宿芦沢九郎兵衛殿
 若田重兵衛殿旅宿へ見廻之
 使者 中原中勤之
 
(付紙)
お綏  [三月朔日より発熱 疱瘡 同十二日酒湯]
お鏡  [三月十九日より同断 同廿九日酒湯]
お多佳 [三月廿一日より同断 四月朔日酒湯]
 
 同十一日芦沢殿若田殿細目
 村休江左傳治伺ひニ罷出候由
 同日七ツ時過久田見村江着
 有之使者同人相勤候
  但進物等有之其後も両度
  有之重断候ゆへ受納無之
  尤下役之衆四人へも同断也
 三月廿五日為参勤
 苗木発駕供鈴木靭負
 四月三日
 江戸到着
 同十五日参勤之御礼
 申上之
 同廿五日赤河村へ左中□
 并郡奉行東数馬出役ナリ
 
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 同廿六日見分之衆中
 犬地村へ引移ニ付使者
 数馬勤之下役衆四人へも
 同断 左中左傳治代官等も
 伺ひニ出ル其外下目付等夫々
 出役之事 萬ハ略之
見分之衆名前
寺社奉行吟味物
調役         芦沢九郎兵衛
              上下八人
           若田重兵衛
              上下同
評定所書役      磯 弥八郎
           河合和三郎
御代官手附      青木 貢一
同  手代      柴田 郡平
             上下各八人
  左中赤河村ニ止宿也数馬ハ五月
  朔日帰村也五月三日左傳治福地村へ
  引こし
  同四日見分之衆中福地村へ引
  移有之
  左中左傳治等伺ひニ出候事
  五月十七日見分相済東数馬
  出役廿日ニ芦沢殿始へ使者同
  人勤之
  同廿一日芦沢殿始福地村
  出立笠松へ引取
  同廿二日左中左傳治已下帰村
  ナリ
  三月廿一日笠松御役所
 
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  御郡代松下内匠殿役所より
  芦沢殿若田殿より以差紙
  百性共御尋之義ニ付御呼出
犬地村庄屋栄左衛門百性代万右衛門福地村
庄屋市左衛門百性代七右衛門七ヶ村惣代
蛭川村庄屋勘左衛門
久田見村百性組頭三人百性代二人
小原村細目村峯下立村飯地村右役
人共内両三人ツゝ
  ニ付百性共出立ナリ
    尤百性共ハ犬地村栄左衛門万右衛門
    福地村市左衛門七左衛門蛭川村
    勘左衛門飯地村ニて庄屋伊平治
    煩ニ付代兼組頭良右衛門次郎右衛門
    峯下立村庄屋喜右衛門組頭元次郎
    右九人ナリ
  同日宮地左傳治笠松へ出立
  同廿三日左傳治已下百姓共
  笠松へ着追々御吟味有之
     飯地村峯下立村ハ
     帰村被 仰付候
     廿五日小原村より三ツ塚申立御改メ有之
     為見届犬地村栄左衛門久田見小原役
     人共立戻り相改之上廿七日笠松へ出ル
  然ル処追々内裁懸合有之
  御手附進野延左衛門より左傳治へ
  相談も有之内匠殿より者以書取
  隣領之義ニも候へハ和談之外ハ有
  之間鋪旨等以書取達し有之同人より
  清書又ハ伺書等差出し双方□□
  申聞候上ニ而訴答百性共連印
 
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ニ而御吟味願ひ下ケ願書差出候処
見分之衆中ハ承届られ居申候(???)      (虫喰詳ならず)
猶又八月廿八日着之積ニ天江戸
表御懸り水野殿役所へ可罷
出旨被仰渡候而帰村被仰付之
左傳治より内匠殿役所へ色々懸
合各注文等有之尾州
御代官杯へも及面会候事
  但此一件事繁多ゆへ略之
同十九日同所出立廿一日左傳治
已下百性共苗木へ着
 
  七月六日石原伴右衛門濃州
  多良へ用向ニて罷出候表向之
  多賀参詣之筈也高木玄蕃殿
  陣屋へ罷出用人立木善左衛門へ
  面会ニてお慿縁組内談有
  之色々懸合之上内談取極メ
  同十七日苗木へ帰着
 
  同廿二日高木玄蕃殿家老
  鈴木十郎右衛門より吉田太郎市
  東権右衛門へ以奉札お慿縁
  組之義申込有之両人より兼而
  内々自分承知之事故可及
  熟談旨申付こし候段返書遣之
   九月中結納十一月十三日婚
   姻之積
  同断ニ付用懸り石原伴右衛門[徒士 目付]        (虫)
 
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 青山吉郎へ廿三日ニ申付ル
  八泊尾州名古屋へ用之義罷出候
 
 八月二日左中用向相済苗木
 出立同十二日江戸着
 
 八月廿一日お慿縁組願書
 御用番水野出羽守殿江細井
 出雲守殿を以差出候
 高木家よりハ雨宮権左衛門殿を以
 差出候
 同日お慿事奥養ひニ申
 込相済候事
 八月廿三日お熊事改名
 お治(ハル)ト弾正殿より遣候旨也
 
 八月廿六日去ル十五日苗木
 出立福地村庄屋市左衛門犬
 地村栄左衛門山論ニ付廿八日
 ニ江戸着候様先頃於見分
 先達し有之候ゆへ着
 
 九月十四日昨夕老中連名
 之奉書大久保加賀守殿より
 到来ニ付登城
 於御白書院縁類老中列座
 加賀守殿口達ニ天お慿縁組如
 
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玄蕃殿 願被 仰付之高木玄蕃殿名
名乗  代雨宮権左衛門殿也御先手
貞金  夫より西丸へ登城老若廻勤也
    今日扣戸川弾正殿へ頼候事
    八月十八日お慿婚姻用懸り
    用人小池傳兵衛元方石原伴
    右衛門玄慰山中九八郎重雍
    目付岡本九十九泰賢へ申付候而
    苗木より九月廿四日便着申来候
    九月十七日多良より両
    敬申合役人共文通有之旨同断
 
    十月五日先月十八日就吉辰
    多良表よりお慿へ結納来ル
    右使者用人立木善左衛門
    苗木へ来ル十八日苗木へ登城
    役人共及応対候事
     町宅ニ止宿愛拶人等出ル委細
     ハ略之
    同日夜ニ入兼而申合通り此方より
    愛拶之使者善左衛門旅宿へ
    傳兵衛使者勤之
     十九日苗木出立之由
 
    十月五日山論懸り寺社奉行
    水野左近将監殿へ双方百性呼出
    且尾張殿城附此方留守居
    も呼出ニ天
    其方の儀双方無申分吟味下ケ
 
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 願哉
  願之通下ケ遣ス久田見村之もの共
  心得違とハ乍申彼是相違
  之義領主役場へ申立候段ハ
  領主ニおゐ天糺可有之旨ニ付
  尾張殿家来東條次郎左衛門へ
  引渡遣候
 右申渡趣一同証文申付ル
   尾張殿家来
       東條次郎左衛門
   遠山――守家来
       福田十郎太夫
 右之通ニ申渡久田見村之もの共次郎左衛門へ
 引渡遣候間銘々得其意 次郎左衛門ハ
 家老中十郎太夫ハ主人へ可申聞
 尤次郎左衛門ハ請書申付ル
     右之通りニ天相済百性一同請
○御吟  證文差上申候○訴訟方之もの共
味下ヶ  心得違ヲ以彼是相違之儀領
願之文  主役場へ申立候段ハ今更後悔奉
と同じ  恐入山稼之義も前書之通対談
此末より  相認候上者聊無申分御吟味之儀
肝要の  連印書付を以奉願上候処訴訟
処ゆへ  方之もの共心得違とハ乍申彼是
しるす  領主役場へ申立不埒之段ハ領主ニ
     おゐ天相糺受旨ヲ以御引渡被
     遊一件之儀ハ願之通り御吟味御下ケ
     被成下之旨被仰渡一同承知奉
     畏候仍御請證文差上申処如件
       尾張殿領分
       濃州加茂郡久田見村惣代
            組頭
              孫右衛門 印
 
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            百姓代
 文政六癸未年十月六日     新右衛門 印
       遠山美濃守領分
        同州同郡
          犬地村  福地村
          上田村  飯地村
          切井村  黒川村
          赤河村
        恵那郡
          中ノ方村 蛭川村
        右九ヶ村惣代
         犬地村庄屋
              栄左衛門  印
         福地村庄屋
              市左衛門  印
  寺社
   御奉行所
  右山論一件相濟百性共十月十
  二日江戸発足
 
同十月廿九日お憑引移之節供
 傳兵衛始士分之面々申付候由
十一月三日於苗木お憑鉄漿
染之祝ひ并近々発駕ニ付首途
祝之
十一月山論杭木打とし天地改
柴田郡平青木貢一久田見村江
着同断ニ付宮地左傳冶代官佐々木
半兵衛出村[四日苗木出久田見村迄出 迎左傳二使者勤之]
同六日笠松御代官松下内匠殿手
付元〆進野延左衛門経界議定
出役久田見村へ着同断ニ付其へも
左傳冶使者相勤候
同七日郡平貢一双方百性召連
入受場柱木打渡相済
 
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 同日延左衛門経界定出役尾州太田
 手付石田藤助水野弥五郎此方宮地
 左傳治代官佐々木半兵衛山方用懸り
 小栗甚内同足軽野村惣右衛門已下双方
 百性共罷出経界定柱木打有之
 八日見分御役人両人并進野延左衛門
 共々福地村市左衛門方へ引移
 九日ニ進野氏并尾州役人此方役
 人訴答百性共七日之通江罷出進退
 場経界定有之不残相済双方
 百性并三方役人印形押之相済
 十一日柴田青木村方引拂
 同日進野も同断ナリ
 左傳治十二日ニ笠松へ使者ニ村方より
 直ニ出立ナリ
   但小栗甚内罷出候事ハ久田
   見村進退場ニ相成ニ備へ
   内見分之為ナリ然ル処追々
   暮途ニ相成候ゆへ来春の筈ニ
   太田役人へ懸合有之
  十一日ニ小栗甚内帰村
  十二日ニ佐々木半兵衛帰村
 十三日笠松表江左傳治着
 十四日松下内匠殿江使者口上趣
 意者久田見村与犬地村福地村
 山論出入り一件先般於其御陣
 屋ニ御吟味之節度々家来共へ願
 御諭双方百性共熟談相整御
 
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吟味下願出候之処今般於江戸願候通
被 仰渡且又経界定之節御手代之内
被指加候由段々以御諭及事済
致大慶候右愛拶白銀三枚贈之
且手代中始へ夫々音物届左
傳治相勤之候旨
十一月十五日笠松出立同十七日苗
木へ左傳治着
(朱筆)
十一月廿三日  但見分出役両人進野延左衛門へも
於江戸事    両度贈物有之此度之事
済ニ付浜    済ゆへ受納有之いさゐハ別ニ
松丁上総ヤ   しるす
吉兵衛へ致
宿ニ付召
呼料理酒
等遣

 右是迄ニ天山論一件
 事済ニ相成大安心也
     但双方絵図面ニ印形等
     取之太田役人此方左傳治
               進野
     延左衛門之印形も有之
 
 十一月十二日朝お慿多
 良表江無滞苗木発輿
 供用人 小池傳兵衛房就共
 目付  岡本九十九 医師 渡辺圭中
 中小姓 宮地矢柄  付属 中村九郎
徒士三人        女中
供目付  佐藤八弥太       雪
     曽我斧三郎       ひさ
     熊沢万三郎  主女中  両人
 
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 十一月十五日関ヶ原駅止宿
 同 十六日八ツ半時多良表江
 着輿渡傳兵衛より家老鈴木
 十郎右衛門へ無滞相済同日婚
 姻相整
 同十七日女中之内ひサ岡本九十九
 渡辺圭中相披キ同廿一日苗
 木へ着 老女代雪岡本九十九姉十二月廿四日披キ 同廿七日苗木着
 同十八日三ヶ目之祝ひ使者傳
 兵衛相勤之彼方よりハ同人旅
 宿へ用人立木善左衛門相勤候
 同十九日傳兵衛相披キ同廿二日
 傳兵衛中村九郎苗木へ着
 文政七甲申年
 正月十四日就吉辰苗木江
 多良高木内善貞吉殿より
 お啓江結納之使者用人平
 塚七左衛門登 城役人共及
 対談候事
  両敬申合以奉札正月十三日に
  相済
  但旧冬十二月廿九日ニ表向平塚
  七左衛門より苗木役人共へ以奉札
  縁組之義申来候自分承知之
  事故可及塾談旨及答候
   但傳兵衛多良へ罷越候
   砌より及懸合候事也
   当六月中引移之積也
 
49     画像(翻刻付)

 
即日右七左衛門旅宿へ答礼之
使者小倉猪兵衛相勤候
  但クわしくは別帳へ有之ゆへ爰ニ
  略す
 
二月廿一日 お綏帯解
お斐髪置 祝之
白髪 塚本文平景次より上之
 
同廿三日お啓事高木内膳殿
江縁組願書御用番大久保
加賀守殿対客へ御先手細井
出雲守殿を以進達落手有之
内膳殿よりは雨宮権左衛門殿取
次ナリ
同日お啓事奥養ひニ相
成ル
三月七日よりお斐事麻疹
相煩到而軽し
三月十八日老中連名之奉書
松平右京太夫輝延殿より到来明日御
用 四ツ時登城之旨由来
同 十九日登城於御白書院
縁類老中列座右京太夫殿江
逢お啓縁組之通被 仰付之
難有旨御請申上退座但高木内膳殿
名代雨宮権左衛門殿与
一所ニ相出候御礼とし天西丸へ
も登城夫より老若廻勤也
今日扣竹中主膳之助殿頼置候
 
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 三月廿六日お鋭事麻疹相
 煩軽瘡也
 
 於苗木二月廿九日雲林寺和尚
 京都転任相済帰寺之由
   遂安和尚字宗寔
 
 三月廿九日道中奉行石川
 主水正殿江日比野村伝馬庄屋
 庄蔵落合宿より鵜沼宿迄九ヶ
 宿之助郷村々惣代として罷出
 伝馬数減少之御礼ニ罷出候就右
 以書付今井七郎左衛門使者相勤候
 
 四月三日お鋭お斐麻疹快
 床揚祝之
 同 四日先月廿五日夕立田瀬村
 囚人周兵衛召連徒士目付石
 川彦兵衛同代安藤孫左衛門足軽
 小頭一人下目付二人警固足軽五人中
 間下男三人田瀬村村役人三人到着
 囚人は直ニ石川主水正殿宅へ着
 留守居福田十郎太夫早朝より門前
 へ相詰候主水正殿へ相渡相済
   田瀬村百姓之内一人ハ直ニ彦兵衛九日出
   之節の保衛
   外両人は役人代重蔵親類代直平
   十日に石川殿宅ニ天吟味有之周兵衛
   いか躰被仰付共御帖無之也御尋有之
   御帖も無之段申上候間一先帰村被仰
   渡候右ニ付十一日両人とも江戸出立
 
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 四月十八日在所江之御暇
 同廿一日江戸発足
 同廿八日苗木城着
 六月四日
 お啓事改名お澄ト我等より改
 遣之同日多良への首途も祝之
 
 六月七日就吉辰
 お澄事苗木発輿
 [供 医師] 渡辺三農  目付 土屋四郎左衛門
 附属    中村九郎 供目付 西尾弥中治
            徒士  佐藤八弥太
 女中 老女代 雪 乳持  はつ
          末女中 しき
 同月十日関ヶ原駅宿
 同十一日高木内膳殿方へ到着
 輿渡土屋四郎左衛門[景美 目付役]より井
 上又右衛門へ相渡
   但俄ニ彼方より懸合ニ相成右之如ク
   相済之事
   徒士之面々は十二日多良出立十四日夕苗
   木へ帰着目付医師付属等は十三日
   出立十七日帰着也
 
 七月三日卯ノ中刻於江戸芝
 邸お久見安産男子出生
 同 九日七夜祝之名者
 
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 義八郎ト号ス
   名兼而奥へ申付置由ニ天
   取計 自分於苗木七月
   十六日承趣也
 
同年閏八月三日東権右
衛門常竹六拾六才老衰殊ニ
近年病気ニ付願之通隠居首
尾能申付五人扶持遣之家
督高百石同性数馬へ遣之            性=姓
   但即日郡奉行本役へ申付候
   是迄見習二天給人へ立身十人
   扶持也近年ニ無之部屋住
   給人也
同日用人鈴木靭負重賢
家老職江申付十石加増
郡奉行宮地左傳次正彬
用人役へ申付十石加増
   但郡奉行勤役中役筋
   出情ニ付文政五年正月十一日
   十石加増二天百十石也十石加増
   増二天百廿石ニ成ナリ是も珍
   敷事ゆへ記置也
 
 文政八乙酉年
 二月十四日貞次郎江名乗
 友詳(アキ)ト遣之 于時七才
 同日彪五郎袴着祝之
 用掛り 山中九八郎勤之
 
53     画像(翻刻付)

 
三月十五日より彪五郎疱
瘡相煩至而軽痘同廿六日
十二日酒湯相祝
 
 三月廿九日
苗木城発駕
  但廿五日発足之処尾張殿
  中津川駅廿六日止宿夫々
  彪五郎疱瘡等ニ候間暫見合也
  供  宮地左傳次
        正彬
 四月七日
 道中九日経日々着
 同月十三日
 参勤之御礼申上
 同月十六日老中連名
 之奉書青山下野守殿忠裕
 より至来日比谷口御門番
 市橋主殿頭殿代り
 仰付之      番頭
  相番       神山佳尾
           中原弥学
 津軽甲斐守殿親足  番頭
  松平長門守殿定保  佐々木兵衛
  代り也       北角太文
 五月七日
御用番水野出羽守殿対客江
 
54     画像(翻刻付)

 
御先手細井出雲守殿を以お治離縁
之御届進達
  但去冬十二月十八日芝屋敷へ
  滞留とし天参ル追々懸合有之
  四月二日戸川家より磯井新右衛門
  松田弥次郎を以離縁之義申来
  同廿二日加藤孝右衛門今井七郎
  左衛門使者二天愛拶ニ及候事
 十一月五日
 津軽甲斐守殿隠居家督就右
 日比谷口御門
 北條相模守氏喬殿へ被仰付候
 北条殿番頭   下山角兵衛
         亀井儀兵衛
 
文政九丙戌年
 正月廿三日夜亥下刻
 [亥子之 四刻也]芝邸ニ天お組安産
 男子出生
 同廿九日七夜祝之
 柴之介ト号ス
  名岡本九十九衛賢より上之
  産髪同人垂之
 二月廿四日柴之介宮参相済
 芝神明田町八幡江也供長田十右衛門
               信登
 同日
 お綏九才下帯始紅白二筋
  お利雄より祝遣之
 
55     画像(翻刻付)

 
 義八郎髪置祝之白髪岡本
 九十九より上之式勤之
 三月朔日於苗木吉田太郎市
 兼登病死年六十九才
 四月十八日在所江の御暇被
 仰出諸事如例年
 同十九日於江戸用人役
 小池傳兵衛房就共家老職
 江申付十石加増
   但直ニ留守詰也
 同日 日比谷御門代り松平
 長門守[定保鉄砲間 二万石]江被仰付候
 北条殿代り建部内匠頭殿政醇
四月廿一日江戸発足
同廿九日着之処上地川出水ニ付
同三十日五月朔日昼頃迄落合宿
ニ滞留
五月朔日八ツ頃上地川渡舟
七ツ時過城着
七月十九日於江戸柴之介病発
同夕七ツ半頃及大切夜ニ入亥ノ上刻
卒去同廿日夕葬東禅寺
法名一等了夢童子
八月十五日来年厄年ニ付
於並松馬場略式流鏑馬
 
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射之
同日彪五郎へ名乗友訓(ノリ)
与遣之于時六才
     友訓 運
十一月三日尾州城代下條
庄右衛門方より惣領数馬江お利雄
事縁談之義申込奉札二天
申来候干鯛一箱来ル
鈴木靭負伊藤清左衛門小倉猪兵衛
宮地左傳次名宛彼ノ方鈴木又蔵
江間助右衛門伊東太兵衛後藤
文七連名なり
  此方より可及返事旨二天
  飛脚返す
十一月八日お次事安産
男子出生之旨[三日朝 辰上刻]多良より為知
来ル九日七夜祝ひ相済名者
隣(チカ)之助ト号ス旨申来
 
十一月四日下條家へお利雄申
込之愛拶飛脚遣ス奉札ニ天
干鯛一箱遣之同七日飛脚
帰着
十一月九日江戸表よりお利雄先
荷物到着去ル朔日ニお利雄
事持病之積気ニ付在所保養
之為引移らせ度願書留守居
を以御用番水野出羽守殿へ
 
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差出候処同二日夕留守居呼出ニ而
可為勝手次第旨御差図相済
同三日ニ碓氷福嶋両御関所
御手形御留守居用頼石河
甲州江自分留守中ニ付家老
小池傳兵衛仮証文ニ而承出候処
同五日御手形御手判被相渡候旨
 但自分本証文十一月廿一日便
 りニ遣之十一月 石河殿
 へ差出候由
同七日お利雄江戸発足道中
十三日経ニ而十九日八ツ時苗木
江帰着
 供 附属目付長田十右衛門信登
 桃井養道[附属之心得 賄]高井忠兵衛
 女中 泳浦 きぬ たて三人 小町傳左衛門
 曽我斧三郎足軽下目付両人 下書一人
 表組二人中間下男雇上下之者合三十人
 
同廿三日下條庄右衛門殿より使者
江間助右衛門昨夜町宿へ着石原
岡右衛門用談ニ罷出候処両敬之申入
有之ニ付今朝助右衛門方へ役
人共より以奉札承知之愛拶有之
廿三日吉辰ニ付お利雄江下條
数馬殿より結納之使者助右衛門
登城直答申遣候
右愛拶町宿へ使者伊藤清
左衛門相勤之
 
58     画像(翻刻付)

 
一小池傳兵衛用向ニ而苗木へ召呼ふ十二月三日江戸立十四日着
 文政十丁亥歳
 正月十一日
     用人役
 [家老格城代へ 申付加判之別差免] 伊藤清左衛門助舎
     弓方物頭
 [用人役へ申付 廿石加増遣之] 纐纈勘右衛門長衛
 右申付之
 
  二月五日
 
一江戸ニ而お利雄縁組願書助
 御用番青山下野守殿江差出候
 如仰之段二月九日便着之節
 申来候
  二月廿七日
一去ル五日青山殿江右縁組願
 書御先手武川讃岐守殿を以
 差出候処無滞相納候旨江戸より申
 来候
 下條殿ニてハ尾張殿御城附より
 以書付伺ひ書差出候由
  三月十三日
一貞次郎事就吉辰褌初
 祝ひ有之  白二筋 用懸宮地一学
       お利雄より遣之
 三月廿五日
一為参勤発駕之処此間中上
 
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 地川出水ニ付渡船無之ニ付
 延引
  三月廿六日
一多良高木内膳殿より廿三日出候飛
 脚瀬戸越ニ而到着之処廿二日酉中
 刻お澄安産男子出生之旨申
 来候 出生江名遣之呉候様頼申
 来候ニ付四月朔日ニ飛脚遣之
  四月五日
一此間中出水ニ而渡舟不相成処二日ニ
 水落ち三日四ツ時発駕申出候処俄
 ニ水増又々延引今五日昼過より渡
 舟相成候旨昨四日夕申上有之処例
 幣使岩倉宰相今晩中津川宿
 泊ニ而明日落合通行故差支
 ニも可相成候付明六日ニ出立与申出し置
 候処今朝曇雨ニも可相成様子
 左候へハ出水も難計ニ付今四ツ時頃
 俄ニ発駕申出候
 八ツ半時供揃七ツ時発駕
      供 纐纈勘右衛門
             長衛
 茶屋坂手前ニ天去月廿八日出之
 飛脚ニ行合ふ
 於落合宿状箱開キ披見之処
 去月廿七日御先手武川讃岐
 
60     画像(翻刻付)

 
 守殿青山殿へ呼出ニ天兼而
 願置候娘縁組庄右衛門惣領下條
 数馬へ如願被 仰付旨以書付被申
 渡候  就右御礼老若并
 田沼玄蕃頭殿へ名代細井出
 雲守殿を以申達候旨申来候
 
 道中十日経ニ而
  四月十四日
 江戸着
  四月廿二日
一苗木より去ル十三日出之元方[岡本 九十九]
 着之処高木内膳殿出生之
 男子七夜祝ひ    相済名
 之義者邸一郎与我等より遣之候
 趣ニ治定申来候
  追而名目六遣之候筈宮地一学
  承知也 名前五ツ計撰ひ遣之
  彼方ニ天治定之約束
  江戸ニテハ四月五日出生之積りニ
  天四月十六日迄産穢之積り之段
  彼方留守居大河原惣右衛門より十
  四日ニ申付候
  四月廿五日
一参勤之御礼申上候
 
61     画像(翻刻付)

 
  四月廿八日
一老中連名之奉書青山下野
 守殿より到来
 本所猿江御材木蔵火之御番
 六郷兵庫頭殿政恒代り被 仰付
 但一手持也
物頭纏奉行○印在所ニ罷在不及
 出府
○名前差出し置天
 冬ノホル(朱書)
水之手番
七月死
(朱書)

鎗奉行
(朱書)
○神田茂助
 中原弥学
○安田与平次
 吉田才八郎
 河内一郎
徒士頭
取次転役(朱書)
納戸
近習
給人家督(朱書)
鈴木庄司
河内一郎
小池馬伍三郎
宮地建蔵
徒士目付○印名計
○引(朱書)
給人家督(朱書)
足軽小頭
○幸纈鋻次郎
○西尾弥中治
○熊沢万三郎
 市岡鶴三郎
 山中重左衛門
此両人(朱書)
亥九月迄(朱書)
九月ヨリハ(朱書)
○小町傳左衛門(朱書)
○曽我斧三郎(朱書)
  三人
実ハ一人ニテ宜
名計三人
右ノ名前御蔵へ書出シ候事


一四月廿六日お利雄事
 苗木城内より発輿
  供用人宮地左傳次正彬
  渡辺玄豊 奥付 長田十右衛門
  奥付心得
  道中供目付 青山三郎左衛門
 供方       平
            塚本節三
 付頭 宮地矢柄  助 曽我隼太
 徒士         田辺馬吉
   小池亀之助  助 曽我斧三郎
 助 安藤孫左衛門 同 佐々木門三郎
 女中         側兼
  むめ 瀧浦       とサ
            末 一人
 
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 先用  石川彦兵衛 [付属心得 式懸り]
 女中  東八郎兵衛 母すを
     暫彼方ニ留置候積
  廿三日出立也
 廿八日お利雄事
 止宿廿九日下條家知行所瀬
 古村庄屋太兵衛方小休此所へ
 下條家より使者等有之
 同所より本行列ニ天下條家へ
 着 輿渡左傳次より鈴木
 大蔵へ無滞相済
 婚姻之式等万端相整候事
 晦日ニ皆子餅取かハせ使者長
 田十右衛門相勤之彼方より伊藤栄
 冶左傳次旅宿へ使者ニ来ル
 同日数馬殿へ引出物之刀
 一腰[白鞘 実行]    左傳次使者
 勤之 其外色々取かハせ之使者等
 有之略之
  供之面々表方士外女中
  共翌日披キ苗木へ
  帰着
  左傳次
 
63     画像(翻刻付)

 
  六月廿日
一お斐事改名お多佳与
 我等より遣之
  但兎角病身ゆへ改め遣候也
 
一高木内膳殿改名大内蔵殿
 実名モ貞数と之旨為知八月
 朔日申来候
 
   九月廿二日纐纈勘右衛門
   病死十六日暮合中風病発
     廿二日死去
   勤番為代十月廿三日
   猪右衛門出府
 文政十戊子年
  正月十一日
一於苗木郡奉行勝手用人
 政事懸り千葉平左衛門
 常替事用人役申付廿石
 之加増遣之
  但在府中ニ付去暮直筆
  之書付遣之
 
   二月廿三日
一お鋭九才   就病身奥方より雑司
        ヶ谷鬼子母神へ立願ニ而
        八才迄男子ニ致置候故
        九才ニ天帯解也
 
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一お多佳
 帯解并下帯始祝之
  下帯は      そよ勤之
  お綏より遣之
一義八郎袴着祝之
  用懸り   石原喜平次
一義八郎江名乗遣之
  友祝(とき)  有
目録 檀紙 安藤吉次郎認之
 
 三月十一日
一島津筑後守殿より岩原幸伯
 
 ヲ以過日彼方息女縁組之儀
 表向申込候処承知之返答有之
  但此方よりハ二月  同人を以
  表向申込み候
 
  三月廿五日
一御用番松平和泉守乗寛殿江
 御先手細井出雲守殿を以
 貞次郎事追々丈夫ニ相成候ニ付嫡
子届出一通 彪五郎丈夫届
書一通進達相済
   貞次郎 当子十三歳
   彪五郎 当子十一歳
 
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 右
一貞次郎嫡子届之義者表向
 弘メ之義ハ城着後可有之候
 得共先右之趣相心得候様ニ家
 中へ目付を以申達候
一即夕和泉守殿より以付札
 令承知候旨留守居呼出
 ニ天被申付候
 
  三月廿六日
一貞次郎事奥養ひニ致候様ニ
 奥江使左中相勤之
  尤是は廿三日ニ同人内々使
  相勤今日表立申遣候事也
一奥養ひニ相成候ニ付殿文字之
 義貞次郎与相心得候様ニ三席へ
 相達ス
  苗木ニ而筆
 四月四日出町便十一日ニ着
 貞次郎事奥養ひニ相成嫡
 子届并彪五郎丈夫届相済候
 旨三席へ申達ス
 同十二日右祝ひ有之
 三席へ如江戸申達候事
 
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四月廿一日於江戸柴邸
お組午上刻安産
男子出生
 但御暇前故極内密ニ致候
 已来誕生日四月廿
五月四日ニ七夜祝之
紀(キノ)八郎与号之我等より遣之
尤江戸出立前奥へ申含置候
五月廿三日宮参相済
柴神明田町八幡也
 
  四月廿二日
 在所江之御暇
  同廿六日
 江戸発足
  五月五日
 苗木帰城 八ツ時過城着
     供小倉猪右衛門
          景朴
  五月廿二日
一就吉辰貞次郎事嫡子届先
 頃相済候ニ付今日弘め申出候
 貞次郎江傳兵衛罷出
  先達而申上候通り今日吉辰ニ付
  嫡子弘之義且就右表居間へ引
 
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  移今日より若殿様与称候段申上候
 夫より二階子供住居より表自分様
 間を貞次郎居間ニ遣之引移
 申候
 居間ニて列座右ニ付取替セ
 使貞次郎江   小倉猪右衛門
  太刀馬代
 我等より同人江  宮地左傳次
  干鯛大小
 右其外干鯛取替セ等有之         干鯛(虫食い)
 祝ひ一汁五菜吸物肴二種
 恐悦之逢も有之諸士一同江は
 表方ハ於書院役人共列座傳兵衛
 申達
  先達而一統為御知之通り
 
  貞次郎様御儀御嫡子御届被
  為済候ニ付以来可奉称
  若殿様与旨被仰出候
 勝手次向江郡奉行始一向台子
 之間へ相揃ひ役人共列座右同断
 
  五月廿三日
 右同断ニ付雲林寺佛光寺江
 代香 宮地左傳次
 若殿付属     納戸より
 目付兼帯へ申付      宮地一学
                 景正
 其外近習坊主等加人申付
 三人宛当番申付候
 
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  六月三日
     用人役
 家老職へ申付  小倉猪右衛門
 十石加増遣之      景朴
  同十八日
一家老鈴木靭負重賢[一昨戌春 中風発]
 病気ニ付役義御免隠居願出五
 月八日塚本文平を以差出候ニ付
 目付使文平を以
  隠居願之義者被成御差留候間
  心長可致保養候併病気柄
  ニも候得者当時加判并御用向
  被成御免候間致全快候ハゝ可申
  聞候他所文通之節者是迄之
  通可致連名候
 右直ニ文平へ申含書付傳兵衛より
 相渡遣之候
一平給人嶋崎良藏重赦側用人
 政事掛へ申付
  十月十八日
      用人役
 勝手向用懸り   千葉平太左衛門
               幸質
 当春より江戸勤番之所以奉書召呼ひ
 申付候十月五日江戸出立十五日着
 江戸へ為代立帰り候宮地左傳次出府
 十七日苗木出立也
一貞次郎事十月三日より発病
 水痘軽く相煩ひ十四日酒湯之
 
69     画像(翻刻付)

 
 祝ひ相済
一彪五郎事十月十六日より発病
 水痘軽く相煩ひ同廿七日酒湯之
 祝ひ相済
 
 多良ニ天
 お徳事七月十五日出産
 男子出生名欽(キン)三郎
 お澄事十月十七日[亥ノ 上刻]出産
 男子出生 名胖(ハン)之助
一十月廿六日小池傳兵衛病死
  但昨廿五日朝於城中風発駕篭ニ而
  退出及暮大切也
  十一月八日
   弓方物頭より
 
 
(付紙)
 用人役へ申付   棚橋源太左衛門
廿石加増        朝愷
 
 
 文政十二丑二月十四日
一彪五郎事就吉辰褌初
 祝ひ有之
  貞次郎より帯遣之
    用懸り石原喜平次勤之
 
  三月十三日
一[家老職へ申付 十石加増遣之]  河内左中正俸
 右用向ニ天江戸表より召呼ひ
 今日申付候二月三十日江戸出立一昨
 十一日着也 同十九日改名正左衛門
 二月廿八日鈴木靭負病死ナリ
 加判列ナキゆへ停止無之
 
71     画像(翻刻付)

 
  四月朔日
一為参勤苗木城発駕
 但三月廿五日出立少々差支
 有之相延し今日出立
  供  棚橋源太左衛門
  四月九日
一江戸到着
  同十五日
一参勤之御礼申上之
  同十九日
一鍛冶橋御門番被仰付之奉書
 大久保加賀守殿より到来
 立花豊前守殿代り 番頭
   自分     [大濱権左衛門 河内一郎]
 相番
 松浦大和守殿代り     同 木村兎毛
  伊東播磨守殿        田中喜兵衛
      長寛        濱田一之右衛門
 
  六月廿一日
一麻布下屋敷馬場ニ而流鏑馬
 之式小笠原孫七郎常亮同平
八常富父子より相伝之
 
 
72     画像(翻刻付)

 
  九月廿日
一多良玄蕃殿奥方次女安産
 女子出生名隆(リウ)
  十二月四日
一お澄婚姻式整之
 文政十三庚寅年
  二月十八日
 於苗木[弓方 物頭より]神山次郎左衛門
 成芳用人役へ申付廿石加増
 遣之直書ニ付遣之
  閏三月十六日
一お綏十三才鉄漿染祝ひ
  河内正左衛門正俸妻クニヨリ筆等
  上之鉄漿親ナリ
一紀八郎三才 髪置祝ひ
 太田猪三武注より白髪上之
  四月十五日
一在所江之御暇被 仰出
  同十八日
一鍛冶橋御門代り森佐渡
 守殿長國 江被 仰付之
  但非番渡し也
  同十九日
一江戸発駕
 
73     画像(翻刻付)

 
  同廿六日
一落合宿江着之所上地川
 今暁より之強雨ニ而渡舟無
 之同卅日着之積之所又々
 出水 落合宿ニ七日止宿
  五月三日
一八ツ時頃城着 供 棚橋源太左衛門
 同十八日
   用人役
 家老職へ申付   宮地左傳次
 十石加増        正彬
  七月十二日
一於江戸芝邸 お組申上刻
 安産男子出生
  同十八日
一出生七夜祝之
 泰之丞与号之我等より遣之
  但兼而江戸へ申遣置
  奥ニ而承知之事也
 
  十二月三日暁より
 貞次郎発熱六日ニ疱瘡
 ニ相極至而軽痘也
 
74     画像(翻刻付)

 
  十日ニ相改候処
   髪中ニ三ツ面部ニ九ツ
   左手ニ三ツ右手十左足五ツ
   右足八ツ[内裏ニ一ツ 二本メユヒニ一ツ]
   背中[左脇一右四ツ 尻右二ツ]腹部無之
   合四十五
  十三日ニ酒湯祝之
  十六日床揚祝之
   同日諸士一同へ料理遣之
   但十五日ニ入湯髪月代致候
 
一宮地左傳次正彬病気之処十二月
 十日病死
 十二月十六日改元天保
 苗木十二月廿七日ナリ
天保二辛卯年
  正月十八日
    用人役
 家老職へ申付     千葉平太左衛門
 十石加増            常贇
    郡奉行勝手用人より
 用人役へ申付      中原幸左衛門
 廿石加増            師芳
 於江戸
一義八郎二月十五日発熱同
 十七日疱瘡ニ相極順痘也
 同廿六日酒湯祝之
一泰之丞三月四日より発熱疱
 
75     画像(翻刻付)

 
 瘡ニ相煩候処至而難痘ニ而同
 十二日夕より追々容躰悪しく同十
 三日暁及大切同酉之刻卒去
 同十四日夕葬東禅寺
 法名一寶宗真祥童子
 
 紀八郎三月十一日より発熱
 疱瘡相煩至而軽痘同廿
 二日酒湯祝之
 
 三月廿五日苗木発足之所
 有栖川宮御妹登美宮之御方
 水戸殿斎照卿へ御入輿落
 合宿廿五日御止宿ニ付差支ニも
 相成ニ付四月二日へ発駕申
 出候
 
 四月二日此間中雨降続ニ付
 上地川出水ニ付渡舟難相成
 ニ付其段上地より注進有之
 発駕延引廿七日ニ申出候
 
 四月二日ニ来ル五日ニ渡舟申上
 有之則日限申出し
 
 四月五日上地川渡舟有之
 
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 朝五ツ時苗木城発駕
  道中八日経之処柳瀬川出水
  之処川明キ神流川出水ニ付
  倉賀野宿ニ半日止宿
  小山川橋落舟渡戸田川も出水
  川明キへ来ル 供中原幸左衛門
 十三日夕方桶川泊ニて七ツ
 半之頃江戸着
 十五日参勤之御礼疝
 積気ニ付別日伺ひ之上以             疝積=疝癪
 使者献上物相済
 六月十四日老中連名之奉
 書水野出羽守殿より到来
 本所猿江御材木蔵火之御番
 板倉越中守勝資殿代り被
 仰付之
  武頭纏奉行          水ノ手番
    幸纈惣左衛門             陶山平馬
    河内一郎   [十月より 塚本瀬兵衛]  長田蔀
    中原丈助               藤井丹司
    伊藤市之進              田辺主計
 徒士目付           足       軽小頭
十月迄 熊沢万三郎              鈴木市平
同   青山新吾
    東八郎兵衛
    水野仲平
十月より小町傳左衛門
    曽我斧三郎
 
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十月十七日立帰りとし天猪右
衛門江戸着 十月八日苗木出立
  但立帰出府奉書ニて九月七日
  ニ申付遣候
     中原幸左衛門病故依願十一
     月七日江戸出立
天保三壬辰年
  正月十八日
  郡奉行より
用人役へ申付  鈴木庄司
           重虞
  直書付遣之
  江戸より去冬歳暮便ニ
同二月十一日
於錐十 三才 鉄漿染祝之
       河内正左衛門妻ニクヨリ
       筆等上之
義八郎 九才 褌初 紅白二筋
       お綏より祝遣之
紀八郎 五才 上下着祝之
 目付土屋四郎左衛門景吉
 用懸勤之
名乗
 友一(クニ) 逸
 我等より遣之 高井鑛九郎認之
       文字十郎太夫書写し
 
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  四月廿一日
一在所江之御暇被仰出候
  同廿二日
一猿江御材木蔵六郷兵庫
 頭政恒殿へ相渡
  同廿四日
一江戸発駕
  五月三日
一苗木帰城
   六月廿二日用人役中原幸左衛門江
   以使幸纈惣左衛門 勤番留守中
   妻家出之始末不宜家事不行
   届次第不束之事ニ候依之急度
   可被仰付処格別以御憐愍役義
   召揚隠居申付同姓中へ家督七
   十石遣之但養子之訳ニ而十石
   減少也
 
天保四癸巳年
  三月廿四日
一為参勤明廿五日発駕之所昨日頃より
 疝積気ニ付明日発駕廿六日与
 申出候
  同廿五日
一明廿六日之発駕兎角不相勝ニ付
 暫延引日限者追而と申出候
 
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 同廿九日出ニ天江戸着之飛
 脚遣之
  四月二日
一不快之方ニ付来ル五日発駕
 之旨申出候
  同三日
一一昨夜中より大雨ニ付明後五日之
 発駕上地川出水ニ付延引
 申出ス
  同四日
一江戸表へ上地川出水之為知且
 此趣ニてハ八日出立之積ニ申遣之
 
  四月八日
一五ツ時供揃同二分過苗木城
 発駕
   供家老
     千葉平太左衛門
 
  道中九日経
  同十六日江戸着
 
  同十九日
 
一参勤之御礼ニ当病ニ付以使者
 献上物相済
 
80     画像(翻刻付)

 
  六月十七日
一於居間平太左衛門江此度
 お綏縁組内談相整候ニ付
 婚姻用懸り申付候
 於役所    側用人
  婚姻       福田十郎太夫
   用懸り     河内三郎左衛門
 右申付候
  但当年者家老共詰合ゆへ
  諸事右両人へ申付候尤
  十郎太夫ハ留守居之事ゆへ
  公辺向三郎左衛門は内向
  用懸り諸事役人共
  相勤候場也
 
  六月廿六日
一お綏事奥養ひ之義奥へ申
 込承知有之右ニ付省事等
 有之萬日記ニ有之
一牧野伊与守殿より使者用人寺田
 万右衛門を以嫡子佐渡守殿総領
 傳蔵殿へお綏被貰度段申込且
 両敬之義申来り承知之愛拶
 福田十郎太夫面会及対談候
 詰合ニ付平太左衛門河内三郎
 左衛門召出し干鯛目六計取
 かわセ有之吸物酒遣之
 
81     画像(翻刻付)

 
  但赤羽根的場守鈴木九
  右衛門祖母妙善仲人也
一夕方牧野殿へ右之愛拶
 使者河内三郎左衛門相勤候
 干鯛目六計取かわせ有之
 伊与守殿佐渡守殿直答
 有之旨申聞候
一於役所婚姻用懸り目付役
 石原佐平次へ奥目付陶山
 丈左衛門 同仕度用懸り賄青
 山千右衛門附属藤田六郎平内向
 式懸り青山新吾へ申付候
   十月五日賄安藤孫左衛門附属
   高井鑛九郎昨日苗木より着ニ付
   用懸り申付
    千右衛門義ハ暫し差留六郎平
    義ハ用懸り差免し十月十二日
    江戸出立来右衛門十一月朔日江戸出立
一九月六日堀尾左盛[目付役]
 於苗木用懸り申付今日着
 
  九月朔日
一日比谷口御門番細川長門
 守殿奥徳代り被仰付旨老中
 連名之奉書水野出羽守殿
 より到来相番織田丹後
 守殿長慕
   番頭  竹村忠兵衛 代り寺田八弥
       北沢忠三郎
 
82     画像(翻刻付)

 
 此方番頭  幸纈惣左衛門
       河内三郎左衛門
 九月十一日
一昨夕御用召候奉書水野出羽
 守殿より到来ニ付登城之所
 兼而願置候縁組
  但八月三日御用番松平和
  泉守殿江森山安芸守殿引次
  ニて縁組願書差出
  牧野殿ニてハ御同役を以於御
  城被差出候事也
 牧野伊与守殿惣領佐渡守殿
 惣領傳蔵殿へ如願被仰付之
 伊与守殿へ引取置追而婚姻
 相極候様懸り和泉守殿より
 書付被相渡候
  九月廿八日
一牧野傳蔵殿よりお綏江結納
 来ル使者寺田万右衛門
  十一月廿四日
一牧野殿へお綏初主道具遣之
 使者石原喜平次
 同廿六日同断以奉札遣之
 
83     画像(翻刻付)

 
  十一月廿八日[曇 夕雪]
一就吉辰お綏事牧野殿へ
 引移即日婚姻相整候より
 八ツ頃出輿
 供側用人河内三郎左衛門正方
 奥付代 堀尾左兵衛[医師 諸掛参予]
 夜ニ入八ツ近披キ申候
  十二月十一日
一お綏里披キ相済申候
  佐渡守殿傳蔵殿同道也
  聟引出物申合ニて代銀也
   同十八日
一牧野殿へ為舅入初而罷越
   伊与守殿ニ者十二月四日初而
   此方へ被参候御勤柄故
   他家被参候事不相成旨
   也兄弟伯父伯父娘之外
   ハ不相成候由嫁之宅も引取
   後ハ不苦之御祝意之由
   咄なり
 当時者
 井上河内守殿[是ハ佐渡守殿 奥方之里]
 此方
 仁木唯吉殿 伊予守殿聟
右三軒之由也
 
84     画像(翻刻付)

 
 
 天保五甲午年
  四月廿一日
一在所エ之御暇
  同廿二日
 日比谷口御門番代り堀
 内蔵頭殿江被仰付之
 織田殿代り
  同廿三日
一江戸出立
  五月二日
一苗木帰城
一八月廿一日於江戸家老河
 内正左衛門正俸五十八病死
一九月十六日鈴木庄司江戸立帰り出府
一九月十八日弓方武頭安田八
 左衛門英敝 側用人政事懸申
 付候席三五左衛門次席也
一同廿三日側用人嶋崎三五
 左衛門重效用人役へ申付三十
 石加増遣之
一十月四日高木大内蔵殿奥
 方ゐ尾同嫡子邸一郎同道
 先月廿九日多良出立心願
 之儀ニ付西美濃稲葉山へ参詣
 忍ヒニ天苗木へ立寄暫滞留
 同廿六日多良へ出立也
 
85     画像(翻刻付)

 
一十月八日用人役棚橋源太左衛門
 年来病気ニ付退役隠居願
 ひ有之処今日以書取左之通
  退役隠居願之儀病気無
  拠(?)儀ニ付願之通退役被 仰付       拠=(虫食い)
  隠居之儀者被成御差留惣
  給人上席被仰付候病気快
  節者上御広間番相勤候様
  被仰付申候
 取次目付宮地矢柄へ申付候
 就右段々結構之仰付余り恐入候
 ニ付加増之方差上度旨大濱権
 左衛門を以申上同十五日右之段差
 上候義之御不本意ニ付其侭無
 心配様申付重畳難有旨礼申上
 有之
  十一月三日
一小倉猪右衛門へ近々
 貞次郎半髪袖留へ付用
 懸り於居間申付候付属宮地
一学へ同介添於役所申付候
 十一月十五日
一貞次郎友詳袖留事
 髪祝之
  加冠  小倉猪右衛門
           景朴
  理髪 [付属 宮地一學]
           景頭
 
86     画像(翻刻付)

 
 名モ勘太郎与改之
 
  天保六乙未年
   正月十一日
一用人役 嶋崎三五左衛門へ
 二十石加増遣之
 
   二月十八日
一勘太郎同道参勤仕度
 旨正月十八日御用番水
 野越前守殿へ御先手深津
 弥七郎殿を以伺候処即夕以
 御付札伺ひ済之旨江戸表より
 申来候
 
 三月六日
一彪五郎友訓袖留半
 髪祝之
    目付
  加冠  石原喜平次
  介添共    定登
 
87     画像(翻刻付)

 
  四月朔日 天
一勘太郎同道二而苗木
 城発足
   供 嶋崎三五左衛門
  道中九日経
  同九日
一江戸到着
  廻勤断以使者御届
  并勘太郎到着も同断
  同十五日
一参勤御礼申上之
  同十七日
一友詳乗出し用懸り
      用人
 於居間申付 嶋崎三五左衛門
 其外側用人[留守居 兼]福田
 十郎太夫河内三郎左衛門留守居
 石原和平目付安江林平
 付属宮地一学同中島嘉兵衛
 江申付納戸岡本小太郎石
原敬八郎留守居手代り加藤
修禮江同様用向賄青山
 
88     画像(翻刻付)

 
 三郎左衛門料理人同新吾へも
 同様於役所申付候
 追而被下物有之一件帳ニ委し
  四月廿日
一書院向其外普請ニ付用
 懸り詰越目付太田猪三へ
 申付候
  五月四日
一牧野傳蔵成著 奥方
 お治巳上刻安産女子
 出生お鉞 友壽付之
  五月六日
一就吉辰新座敷釿始
 有之同廿八日棟上有
 之
  五月十日
一お綏出生之七夜祝之
 名お鉞(エツ)与自分より遣之
 肴鯉上一折添使者河内
 三郎左衛門を以遣之
 
89     画像(翻刻付)

 
  六月三日
一勘太郎友詳小笠原孫
 七郎常免同平八常
 江騎射門入麻布下屋敷
 ニ而相済
  為愛拶翌四日河内
  三郎左衛門使者ニて礼物
  遣之
一小倉猪右衛門事
 勘太郎乗出し用ニ付立帰
 出府申付去月廿五日苗
 木出立今日到着
 五月十五日お澄事安産
 女子出生之旨廿一日頃苗木
 より申来候
   名雅(つね)
 
  六月十四日
一老中連名之奉書松平周
 防守康任殿より到来
 鍛冶橋御門番伊東播磨守
 長寛代り被仰付候相番谷出
 
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 羽守衛封殿
  谷殿番頭  松本嶋左衛門
  此方 同  河内三郎左衛門 八月迄
        神田才六
        加藤修礼    七月ヨリ
 
  七月十日
   側用人鑓奉行兼より
一[鑓奉行兼帯 役差免]河内三郎左衛門
 政事懸り申付是迄之役料  正方
 加増ニ直し序之義安田八左衛門次序
 右申付之
  閏七月廿二日
一表門へ出し紋出来今日より
 修覆出来
   大工[中島常次郎献上 紋付上下遣之]
 
 同日京極長門守殿片桐石見守殿
 招有之
 八月六日御先手深津弥七郎殿千
 村弾正少弼殿招
 八月十九日毛利徳(?)太郎就軌殿
 招尤同御招断り有之
 右ゆへ九月三日に中川修理太夫久
 
91     画像(翻刻付)

 
道鍋島紀伊守直尭毛利讃
岐守元世京極長州片桐石州
招也
 
  八月廿三日
一勘太郎友詳同道御用
 番松平和泉守乗覚殿
 対客へ罷越御先手深津弥
 七郎殿も同道也
   廿三廿五両日に逢相済
 
 廿三日御奏者番招脇坂中
 務大輔安菫水野壱岐守忠美
  九月十一日
一御用番周防守殿へ御先
 手千村弾正少弼殿を以御目
 見願書進達
 
  同十五日
一昨夕周防守殿より奉書候依之
 勘太郎同道登 城初而
 御目見首尾克申上之
 将軍 家齋公
 内府 家慶公江奉謁
 
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 披露間部下総守詮良
  [跡乗介添 留守居]  福田十郎太夫
                 景贇
  十月朔日
一勘太郎月次初而同道二而
 登 城
  但九月廿三日御先手深津
  弥七郎殿を以財御用番水野
  越前守殿へ進達廿五日伺之
  通被仰付之
  十月八日玄猪初而登城
  十一月五日
一勘太郎友詳元服
  加冠 小倉猪右衛門景朴
  理髪 宮地一学 景正
     側用人役
   附属之内ニ申付置候其侭相勤候
  即日両丸老中廻勤也
   十一月十九日
    側用人より
 用人役へ申付   河内三郎左衛門
 廿石加増           正俸
一十二月朔日猪右衛門用向相済
 苗木へ出立也
 
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  十二月十六日
一勘太郎御用召登城叙爵
 被 仰付官名刑部少輔与伺
 之通被仰付之
  御礼老若廻勤官名伺済
  老中計廻勤
  自分も叙爵被仰付御礼
  両丸老中廻勤也
   但先年ハ老若廻勤之由
   相見申聞も秋月侯迄
   例ニ而此如也
    友随公御叙爵友清公
    之節也
 天保七丙申年
  正月元旦
一刑部少輔友詳年始初而登
 城同道也御流御時服頂戴
 之也
 
  同十一日
一父子同道登城刑部少輔
 初而御具足御祝頂戴之
 
  四月十八日
一在所江之御暇
 
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  同十九日
一鍛冶橋御門代り池田丹
 波守殿政範(?)江被 仰付之
 相番谷殿代り土方主殿殿
 
 同廿日
一江戸発足
 義八郎同道也
 
  同廿八日
一苗木城着
 
  五月十六日
一於苗木彪五郎友訓騎射
 誓詞為致候而同十八日江戸表小
 笠原先生へ手紙添遣之
 
  六月十五日
一江戸妾腹お鋭事   家臣
 棚橋源太左衛門朝愷忰左右
 馬朝孝江縁談申出之
 親類吉田才八郎兼義役所
 ニ而申渡父子共礼申上候
  但左右馬事近習相勤居候処
 
95     画像(翻刻付)

 
   一昨十三日給人へ立身側用人見習
   へ申付候
 
一九月十八日お鋭江戸出立
 十月三日苗木着[道中十六 日目也]
  道中ニて不快板鼻ニて三日滞
  留也 御関所手形棚橋左右馬
  妻之儀也
 供目付ニて     江戸より立帰り
  石原喜平次       小栗玄禎
 徒目付付属      女中
  藤田三郎平     両人 [かね とみ]
 下目付四人平三人中間一人下男一人
 那木屋敷へ着也
 
 十一月十五日棚橋より結納同
 所へ親類名代棚橋喜兵衛を以
 上之
 十一月廿七日お鋭事那木
 屋敷より棚橋家へ引移即日
 左右馬へ婚姻相整
 
天保八丁酉年
  正月十一日
    側用人ヨリ
 用人役へ申付  安田八左衛門
              英敝
  同十二日
一お澄安産男子出生之旨
 
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 申来廿二日ニ為知来ル
 十八日七夜祝之
 名 □(トラ)之進         □(トラ)=虎(莵) 文字無し
 
  正月廿八日
一彪五郎事改名兵部
 前髪執之
  用掛り石原喜平次定登
  勤之
 
  三月廿五日
一為参勤発駕之所去年来
 不快ニ付延引之旨十八日申出ス
             於江戸表
 四月朔日御用番松平和泉守殿
 江届書以使者差出ス
 
  四月二日
一家齊公御隠居西丸へ御移徒
 家慶公御家督御本丸へ御移
 替有之今日より
 上様  大御所様与奉称候
 事
  右一件勤向等は別帳ニ委しく
  記ス故略之
 家祥公は正月二十一日御本丸へ御
 移徒之御式有之
  是ハ兼而西丸より御本丸へ御逗留故
 
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  表向御式如此也
 四月十九日於江戸表当月中
 難致参府段国使者を以御
 用番へ御届出ル
  此已後月々毎々相出候事也
  其度々ハ略之
 
 四月廿二日安田八左衛門已下江戸
 表へ出立千葉平太左衛門已下五月
 五日より追々代り合ニて苗木へ帰着
 
 六月十三日山中用屋敷普請
 用向取扱之義嶋崎三五左衛門へ無
 急度致候様申付候同断元方両
 人[古屋四郎左衛門 小栗三郎四郎] 江用向申
 付候
 同廿七日就吉辰普請事
 始有之
  右者大黒屋栄蔵神戸弥助
  毛呂窪村亀次郎三人より内々願ひ
  因て普請申付之
 九月廿七日棟上有之
 
 九月二日将軍
 宣下 御転任 御兼任有之
 家慶公 不経右大臣 左大臣
 家祥公 右大将 御兼任
 右御式有之
  豊前守友詳束帯ニ而
          登城
 
98     画像(翻刻付)

 
 九月十日刑部少輔改名御用
 番太田備後守殿江伺ひ之上豊
 前守与被 仰付之
  一橋殿差合ニ付改名也
 九月十七日紅葉山へ供奉
 行列友詳束帯ニ而勤之
 
 十二月廿四日夜高木玄蕃殿
 病気差進為知来
 天保九戊戌年正月九日辰
 刻死去之旨為知求馬殿より飛
 脚ニて申来
 天保九戊戌年
 二月五日義八郎友祝
 半髪袖留祝之
 用懸り目付役  太田猪三
           勤之
 
 二月廿六日苗木発足
 三月六日江戸着
  供 早出府 神山次郎左衛門
 参勤之御礼就不快同十三日以
 使者石原和平献上物相済
 
99     画像(翻刻付)

 
  三月十八日
一義八郎事弾正与改名前
 髪執之
   用懸り石原喜平次定登
   勤之
  四月七日
一御朱印御改本多下総守殿
 康禎井上河内守殿正春  於井上殿
             書方
 重役 鈴木庄司  差添 石原和平
 罷出無滞相済
 勝手次第苗木へ差登候様御達
 ニ付四月九日江戸出立
 同十八日苗木着
 守護[重役 用人]   鈴木庄司
   徒士目付代  宮地茂右衛門
  足軽小頭下目付一人ツゝ
  堅固足軽四人 持夫四人
  但昨冬十一月十四日
  苗木出立同廿五日江戸着也
  右一件相済一所ニ此所へ記置候也
 
  同四月廿一日
一在所江之御暇
  大御所様右大将様より之拝領
  初而有之
 
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  閏四月五日
一明日江戸発足御届太田備
 後守殿江直勤
  但伊井殿始老若[三御所様 付之衆中]
  暇乞可罷越処不快押而致
  発足ニ付留守居使者
 
  同六日天
一江戸屋敷発足
  弾正友祝同道也
   供安田八左衛門
  閏四月十四日快天
一苗木城着七ツ半頃也
一御代替ニ付国々御巡見有之
 土屋一左衛門殿二千石設楽甚十
 郎殿  水野藤次郎殿
 閏四月九日領分御入込中ノ方
 村泊翌十日瀧坂渡舟相済
 昨十三日中津川宿泊今朝上地渡
 舟苗木北門江家老千葉平太
 左衛門用人嶋崎三五左衛門罷出其
 外先例之通諸事相済候て昼休
 田瀬村也
  右ニ付着之所暫見合今朝初て之
  出立也
 
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  五月廿一日
一お多佳并お久見外ニ女二人江戸
 表五月九日出立今日苗木城
 着
  上地川出水瀬戸渡舟也
          了