中津川市/古文献アーカイブ

史資料

苗木城・苗木領関係資料

大名遠山家資料



 翻刻 (画像番号)
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 現代訳

 
 
<翻 刻>
 
管理番号 一
 
 遠山文書 番号八〇
 
1     画像(翻刻付)

 
    岩村城請取次第
 
3     画像(翻刻付)

 
    遠山氏発向之事附霧城落城事
扨も駿河御城丹(に)ハ遠近武士相詰ける 台命を
下して東濃苗木城主遠山久兵衛尉を被召出
田丸中務少ハ石田と一味の上ハ其方急キ岩村
へ馳向い田丸を追崩し城を請取来へしと
御詫(わび)有けれハ畏りて御願申上られける様盤(は)
小里の城主和田彦五郎并明知の城主遠山民部少
儀森武蔵守にそむき三州へ立退在宅にて
 
4     画像(翻刻付)

 
罷在候此者共ハ岩村近所の案内委(くわしく)存候間
今度被召出一所に被 仰付可被下と申されけれハ
大樹最と御聞届彼の両人を被召出今度遠
山と一所丹城を受取可申然上ハ面々本知
可申付と被 仰渡けれハ両人ハ畏(かしこま)り遠山へ
一礼し各本所江そ引れける前々家中の侍共
爰(ここ)かしこより馳(はせ)集城々へそ相詰ける城主達
仰けるハ今度蒙 台命岩村へ罷立候間
 
 
家中の面々其用意有へしと被申渡候処へ
苗木殿より明後日寅の上刻丹岩村へ参着
有へしと被 仰越けれハ何茂岩村立の用意
周章してこそ聞へけれ遠山久兵衛尉盤五百
余騎を引具し岩村へ打越阿木飯羽間
尓旗一流翻し陣取てこそひかへける小里
明知も三百余騎丹(に)て幡二流翻し城の
南の手丹こそ陣取ける田丸か勢三百余騎丹て
 
5     画像(翻刻付)

 
城中丹籠たり頃ハ慶長五年十月の事
なる丹遠山氏ハ城をつくくと御覧して
抑(そもそも)此城盤霧か城とて敵寄すれハ霧城越(を)
包四方半里の中ハ忽闇夜となり敵是越
あくミ陣を引こと度々有由申伝候今悪
逆無道の田丸尓て天罰無遁晴天尓(に)して
矢倉くの征矢の数まで手尓取様丹見て
けれハ田丸か運の尽とそ被思ける然処尓
 
 
田丸ハ敵寄ると聞ていそき矢倉へ馳上り
 城の南北の勢を見れハ寄手の軍勢甲を
 そろへ雲霞(うんか)のことく尓見へけれハ田丸矢倉
 より飛下り斯く大勢を引請利を得んこと
 千尓一つもなかるへし所詮髻(もとどり)を切て城を渡へし
 と鳴を静てひかへける時尓遠山氏時分ハよし
 と陶山次郎兵衛を以て被申けるハ今度某(それがし)蒙(こうむり)
 台命を城受取尓罷向ひ候いそき城を相違なく
 
6     画像(翻刻付)

 
被相渡候か又盤(は)一戦尓及ひ給ふか有無の返事
承候へし申遣けれハ田丸聞て御返事ハ追付跡
より以使者可申遣と則陶山ハ本陣尓帰りけり
扨も田丸ハ以使者申けるハ成程城を相渡可申
条子細なし就夫大将へ少御目尓懸り度事
御座候間城の東門迄御出可被下と有けれ盤
遠山氏盤いかにも心得て候とて使者ハ其まゝ
城中へ帰給ふ其時田丸中務少ハ髻を切て
 
 
西尓なけ織物の袴尓一尺八寸の太刀帯て
家老の石部外記を召連城の東門尓そ出
にけり遠山氏も同し織物袴尓大太刀帯て
東門丹そ被出ける家臣纐纈藤左衛門黒糸の
鎧丹鎖手拭丹て鉢巻し三尺八寸の大太刀
真十文字尓指御供してこそ出にけり双方互に
近付ハ先纐纈ハ田丸尓しきだい事終り様子を
見れハ髻を切てそ見へにける扨ハ不苦と脇尓
 
7     画像(翻刻付)

 
扣て伺公する大将互尓対面ことおハり田丸申
されけるハ只今貴殿へ城を相渡申事別儀なし
某ハ是より高野山へ可罷登と存候得共永々
籠城及困窮御恥敷なから持合尓差詰り候間
近比無心なから路用少々被 仰付可被下其上
白昼丹罷出事余丹無面目暮尓及罷出申
度存候是より西美濃筋迄案内者壱人被
仰付可被下と被申けれハ遠山氏聞給てそれハ
 
 
安き事なりとて互尓双方へ別けり扨田丸盤
城中へ入られ誰か有質木屋の戸を開キ囚人
一々可出スと有けれハ畏り候とて彼の質木屋
の戸をひらけハ八十余人の女房共一度丹群り
出にけり其外尓惣家中中間下部丹至まで
思々尓城を出大将田丸ハ旅の装束用意
して家臣外記若党足軽尓長刀一振持セ
主従四人諸共尓夜半尓紛城中より忍ひやか尓
 
8     画像(翻刻付)

 
被出けるか田丸とりあへす一絶の句をそ書たり
ける
    其詩曰
 武門栄耀暫時夢
       業障輪廻報此期
 堪恥零丁衰幣苦
       誰知今日別離思
 岩村丹たまるものとて雪はかり
   きえもやせんとおもふ我身そ
 
 
と城の大門尓張付て出られける遠山陣所
より纐纈出向ひ是盤近比少分なから
為路用と金子五十両被出けれハ田丸盤
請取忝(かたじけなし)と押戴彼長刀を取出し是盤
田丸家尓代々伝りし打物なり今度遠山氏
発向のしるし尓進上仕候と指出しけれハ
纐纈請取足軽二人呼出し此者共御案内
のため西美濃大田辺迄被召連候得と引
 
9     画像(翻刻付)

 
渡彼長刀を携本陣へそ帰けり小里も明知も
遠山の陣所尓集り其日ハ早暮方にそ
なり尓ける慶長五年十月十日三人の城主
達ハ大勢を引具し挑灯数多ともさせ城中
を見給尓人一人もなく只城吹風の音はかり
広間あたりを見給尓大将の物具を先として
弓鑓鉄砲馬具の類山のことく丹積たりける
人々ハ是を見て痛敷のことくもかなと皆々
 
 
涙をそ被流ける時尓遠山の家臣石垣遂一
丹帳面尓記させ則石垣兵右衛門ニ足軽三拾人
中間五十人当分城番にそ被居ける城を下り
馬屋あたりを見給尓乗馬三十疋つなきける
小里明知も足軽四人宛小人十人宛被付けり
夜も初生と明けれハ皆悦ひ在城へ帰り
給けり
 
         完
 
 

現代訳

 
岩村城請取りの次第
 
  遠山氏発向の事  付 霧が城(岩村城の別名)落城の事
 
 さても、駿河の御城には遠近の武士が詰めていた。
 将軍の命令により、東濃苗木城主遠山久兵衛尉が呼び出され、田丸中務少(輔)は石田三成に味方しているので、「その方は急いで岩村へ駆けつけて田丸を攻めて追い落とし、城を請け取ってくるように」と申し渡された。そこで、久兵衛尉がかしこまってお願いしたのは、「小里の城主和田彦五郎ならびに明知の城主遠山民少(輔)も又森武蔵守に背き、三河へ立ち退いております。此の者共は岩村近辺の地理に詳しいので呼び出して一緒に御命じ下さるように」と申上げたところ、将軍はもっともとお聞きなされ、この二人を呼び出し、このたび遠山と一緒に城を受け取るよう命じられた。その暁には銘々の旧所領を与えると約束されたので、両人は「かしこまりました」と久兵衛尉へ一礼をしてそれぞれの領所へ引き下がった。
 前々からの家中の侍たちは、ここかしこより、それぞれの城へと集まってきた。
 城主たちは、このたび将軍の命令により岩村へ出陣するので家中の銘々はその用意をするようにと申し渡された。そこへ、苗木殿より、明後日の寅の上刻(午前三時過ぎ)には岩村へ到着するようにとの命があったので、皆はあわてふためいて、岩村立ちの準備をした。
 遠山久兵衛尉は五百余騎を引き連れて岩村へ攻め込み、阿木飯羽間に旗一流れを翻して陣取って控えた。
 小里・明知も三百余騎にて幡二流れを翻し、城の南側に陣を取った。
 田丸の軍は三百余騎にて城中に籠っていた。
 時に慶長五年十月の事であった。遠山氏は城をつくづくと御覧になったが、そもそもこの城は霧が城といわれ、敵が攻めてきても霧が城を包んで四方はたちまち闇となり、敵はこれを攻めあぐみ、退却すること度々であると申し伝えられている。
 今は、悪逆無道の田丸なので、霧が晴れて矢倉々々の征矢の数まで手に取るように見えた。
 田丸は敵が攻めてくると聞いて急いで矢倉へ駆け上がり、城南北の軍勢を見ると、寄せての軍勢は冑をそろえて雲霞のように見えた。田丸は矢倉から飛び降り、このような大軍に勝利することは千にひとつも難しい、結局髻(もとどり)を切って城を明け渡すことになると考え鳴りをひそめていた。
 時に遠山氏、頃はよしと使者陶山次郎兵衛を送って「このたび、我等は将軍の命を受けて城を受取りに出向いて参った。急ぎ城を明け渡すか、又は一戦を交えられるか、返事を承りたい」と申し伝えた。田丸はこれを聞いて、「ご返事は追って後程使者により致す」と答えたので陶山は本陣に帰った。
 さて、使者を通しての田丸の返事は「なるほど、城を明け渡すことは何の問題もない。ただ、それについて大将に少しお目にかかりたいので城の東門まで御出で頂きたい」と申された。
 遠山氏が「心得た」と答えたので使者はそのまま城中へ帰った。
 その時田丸中務少は髻を切って西に投げ、織物の袴に一尺八寸の太刀を差して家老の石部外記を召し連れ、城の東門に出向いた。
 遠山氏も同じ織物袴に大太刀を差し、東門へと出向いた。
 家臣纐纈藤左衛門は黒糸の鎧に鎖手拭の鉢巻をし、三尺八寸の大太刀を真十文字に差しお供についていた。
 双方互いに近づいて挨拶をすまし、纐纈が様子を見ると、田丸は髻を切っていたので、これは間違いなしと脇に控えていた。
 大将は互いに対面の挨拶を終わり田丸が申されたのは、「只今貴殿へ城を明け渡すことに異存は無い。私はこれから高野山へ登るつもりであるが、永い間籠城していたため、お恥ずかしながら持ち合わせに差し詰まっているので路銀を少々無心したく、その上、白昼に出発はあまりに恥ずかしいので、日が暮れてからにしたいと思う。また、ここから西美濃方面の道案内人を一人付けて頂くようお願いしたい」と申された。遠山氏はそれは御安いことと聞き入れ、互いに双方へ別れた。
 それから田丸は城中に入られ、質木屋(人質を収容する小屋)の戸を開き、人質をすべて出してやるようにと命じた。家来が質木屋の戸を開けると八十余人の女房たちが一度に群がって出て来た。
 そのほかに惣家中・中間・しもべなどに至るまで思い思いに城を出た。大将の田丸は旅の装束を用意して家臣・外記・若党・足軽に長刀一振りを持たせ、主従四人は夜半に紛れ城中より忍びやかに出られたが、そこで田丸は一絶の句を書き残した。
 その詩に曰く
   武門栄耀(えいよう)暫時の夢
       業障輪廻(ごうしょうりんね)此の期(ご)に報(むく)ゆ
   零丁衰幣(れいていすいへい)の苦しみに恥ずるに堪(た)えたり
       誰か今日(こんにち)別離の思いを知らん
   岩村にたまる(1)ものとて雪ばかり   (1は田丸との掛詞)
    きえ(2)もやせんとおもふ我身そ   (2は「雪」と縁語)
 これを城の大門に貼り付けて出られた。
 遠山の陣所から纐纈が向かい、これはわずかながら路用のためにと金子五十両を差し出すと、田丸はかたじけなく押し頂き、「これは田丸家に代々伝わる長刀であるが、遠山氏発向のしるしとして進上したい。」と差し出すと、纐纈はこれを受取り、足軽二人を呼び出し、「この者共を道案内として、西美濃太田あたりまでお連れになられよ。」と引き渡したのち彼の長刀を携えて本陣へ帰って行った。
 小里も明知も遠山の御陣所に集まり、その日は早くも暮れ方になった。
 慶長五年十月十日三人の城主達は大勢を引き連れ、多数の提灯を灯させて城中を見れば、人一人もなく聞こえるのはただ、吹く風の音ばかりであった。
 広間あたりを見れば大将の物の具をはじめ弓・槍・鉄砲・馬具などが山のように積まれていた。
 人々はこれを見て痛ましいことだと皆々涙を流された。
 時に、この有様を遠山の家臣石垣に逐一帳面に記録させた。その上、石垣兵右衛門に足軽三十人中間五十人を、当分の城番のため付けられて城を下った。
 馬屋あたりを見ると乗馬三十匹がつながれていた。
 小里・明知も足軽四人ずつ、小人(3)十人ずつを付けられた。
 (3は武家に使われた走り使いの者『広辞苑』)
 夜もほのぼのと明けてきて、皆悦んで夫々の在城へ帰って行かれた。