中津川市/古文献アーカイブ

山口村誌 上巻(第四章 近世)

第四章 近世

第十節 江戸時代の紀行文にしるされた馬籠宿

十返舎一九
 …山道をたどりたどり漸落合の駅にぞ出たりける。棒鼻の茶屋女ども往来を呼たつる。「おやすみなされ、おやすみなされ。お煮染めのできたてもござりますになァ、おはいりなされおはいりなされ。
 かごかき「だんなさま、安くいきませずか、乗ていじやかつせませ。弥次「イヤイヤ駕にはのり飽た。気なし気なし(ト、行過るに猶かごかきはあとよりついて来り、)「そんなことをいはつせずと乗てくれさつしやいませ。まんだがいにとほりもすけないで、わしどもはなァ憂ことでや。聞てくれさっしやい、米が一升百せるに、うちのかつかあが此中から疝気を病で、わしなァ肝がにえるから酒手でいかずに。のう旦那、どうでどうで。
 北八「いくらでのせる。かご「ハテがいにねらすこたァなからず、えいやうにくれさつしやい。北「そんなら弥次さん。そろそろいきねへ。おいらァどうしたか、足がすこしなまけて来たから、乗ていきやせう。(と、此所にてかごのさうだんができて、きた八はかごに打のると、弥次郎はさきへゆく。やがてかごは十きよくたうげにさしかかる。此ところにてきつねがうやくといふをうる家おほし。)「サアサアお買なさつてござりませ。当所の名方、狐膏薬、御道中おあしの痛金瘡切疵 ねぶと はれもの。所きらはずひとつけにてなほる事うけあひ。外に又吸がうやくのすひよせる事は金持の金銀をすひよせ、惚た女中がたをもぴたぴたと吸よせる事奇妙奇代。おたしなみにお買なされ。北「いやこいつはおもしれへ。かごの衆ちとまつて下せへ。モシその吸がうやくは女郎買にいって、ふられてよりつかねえ女郎をも、すひよせやすかね。膏薬や「さやうさやう。したがそこに仕やうがござります。そんなときには膏薬を紙へのばさずに、小判へのばしてその女郎へ張付てやりなさい。じきに吸よせます。北「おきやがれ。そんなことであらうと思った。女を吸いよせるとは出はうだい、それはうちまたかうやくにこそ
 峠の茶屋には、栗の強飯名物あり。
  渋皮むけし女は見えねども
  栗のこはめし爰(ここ)の名物
 
 弥次さん喜多さんのコンビによる珍道中でおなじみの滑稽本『膝栗毛』の作者・十返舎一九は、明和二年(一七六五)駿河の国、府中の武門の家に生まれた。本名重田貞一。江戸へ出た一九は、最初の頃は通油町の地本問屋蔦屋重三郎の食客として、黄表紙の売れない挿絵画家であった。ところが最初に出版された『東海道中膝栗毛』が江戸の庶民たちに熱狂的に受け入れられ空前の大ヒット作となった。江戸時代、一千部売れればベストセラーだったという。『東海道中膝栗毛』は、毎編出すごとに一万部から売れたというから、一九は一夜にして大ベストセラー作家となったのである。江戸っ子たちから、やんやの喝采をうけた弥次さん喜多さんは、かくして東海道から木曽街道への旅に向かう事となったのである。かくして、『木曽街道・続膝栗毛(六編下巻)』が発刊されることになった。一九は『木曽街道・続膝栗毛』を書くための取材旅行などであししげくこの地を訪れている。最初は文化八年(一八一一)で同年六月、東より木曽路に入り十曲峠を下っている。

木曽街道・続膝栗毛三編・叙(じょ)