中津川市/古文献アーカイブ

山口村誌 上巻(第四章 近世)

第四章 近世

第六節 村民生活

五 生活上の制限

封建社会では農民は米の生産者でありながら日常米を自由に食うことが出来なかった。慶安二年の触書に、酒や茶を買って飲んではならないといい、更に百姓は分別もなく末の考えもないものであるから、秋になれば米や雑穀をむざと妻子に食わせる。いつも正月・二月・三月時分の気持で食物を大切にすべきであるから、雑穀を専一するように麦・粟・稗・菜・大根・その他何でも雑穀を作って米を多く食いつぶさないようにすべきである。飢餓の時のことを思い出せば、大豆の葉・あずきの葉・ささげの葉・芋の落葉など、むざと捨てるのはもったいないと述べ、家主・子ども・下人等に至るまで、ふだんは出来るだけ粗飯を食うようにせよ、ただし田畑を起し、田を植え、稲を刈り、または骨を折ったりするときには、ふだんより少し食物をよくし、たくさん食わせて使うようにせよ、そうすれば精を出して働くものである。また身代のある者はよいが、田畑少なく生活の苦しい者で子供が多くあれば、人にくれたり、奉公に出し、年中の生計のことをよく考えよと、食物と労働を引きかえに命じている。年貢の完納を果すため、そのためにも詳細な規定があり、農民には最低の生活を強いている。そして年貢さえすませば、百姓程心易いものはないとしている。尾張藩も領民に絶えず倹約令を出して、村民の誓約書を徴している。
 享保八年九月の領内法度では、食事の件について、次のように命じている。
 
 一ふるまいの儀は堅くご制禁を守り、どうしても食事を出さなければならない寄合であっても、手作り物にて一汁一菜にすること、常々は粗食を用いること。
 一結婚式の祝宴も軽く一汁一菜を限度とし、酒三献に限り、近親者仲人のほかは大勢招待しないこと。
 
 文政一一年一二月にも「御倹約仰せ付られ候箇条書の覚」に、山口村中連判請書を差し出している。これにも、祝儀の節、万事軽く取扱い、吸物二ツ、硯蓋一ツ、取肴二ツ、都合三品に限るとしている。振舞いの節も一汁三菜とし、地元の産物のみにて取り合わせ、手軽に致すこととしている。
 こうした制限は時代によって変化はあるが、米を食べないようにという意味は、それが年貢になるものであったからである。大部分の農民には、こうした禁令の有無に拘らず米を常食とすることは不可能であった。
 山口村は木曽谷の中では一番の米の生産地であったが、その山口村が承応元年(一六五二)春、山村役所から米七〇俵を借用した記録(楯庄屋用要留帳)がある。この記録は借用した時のものではなく、八三年後借用が解決した際に記帳したものである。原文のまま掲げると次のとおりである。
 
     先年山口村に福島より米借り候事
 一承応元年(一六五二)旦那様(良豊)御子十三郎様、御米七拾俵辰春御借、利息之儀辰巳両年ハ五割、午未申三ヶ年ハ四割ニて相定御恵借仕候所、元利為出シ不用、年々弐拾八俵宛斗ハ其時手形指上申候
    御奉行様
     大脇文右衛門様
     小野惣左衛門様
  凡八拾三年程借居申候ニ付、御願申上三割元、拾三年ニ相済申候様ニ御願、則被御仰付享保十九年ニ而相済申候
   庄屋ハ六兵衛と申候

承応元年飯米借入手形(楯庄屋用要帳)

右の文面では山口村が七〇俵の飯米を借用しなければならなかった事情はわからないが、承応元年の春に借り入れをしているから、田植や麦の収穫前の食いつなぎと思える。当時の村の戸数は七〇戸位であったと推定されるから一戸当り一俵の借米であったとみえる。「長野県歴史大年表(郷土出版社)」によると、承応元年は高井郡地方旱魃被害、同三年が信濃国大旱魃とあるから、このような天然の凶作被害を受けていたとも思われる。
 前掲の文面によると、この借用米は旦那様(山村代官良豊)の子十三郎より七〇俵を承応元年(辰)の春借用し翌二年(巳)の二年間は、利息米五割(三五俵)とし、同三年(牛)、翌明暦元年(未)、同二年(申)の三年間は四割と決めて拝借したとしているから、五年間の借用契約であったようにみられる。そして辰・巳の二年間は五割の利息米を上納した。三年目(午)には四割の利息米二八俵が上納出来なくて手形のみ入れ、五年目にも同様に利米二八俵の手形を入れた。この様子からみると、利息米三年分八四俵、元(もと)米七〇俵計一一四俵となり返済不能になっていた。この件の文書は山村家の奉行宛に提出している。
 後書の付書文書は返済が完了した八三年後の享保一九年の記事である。「およそ八拾三年程借申候」とあるから三年間二八俵の四割利米の手形を入れた後は返済不能で滞納のままであったようである。その次に「お願申上げて元米(七〇俵)に三割の利を付けて一三年間に相済すようお願い申し上げて、そのように仰せ付けられを享保一九年に相済した」としている。承応元年借り受けてから返済する享保一九年まで八三ヵ年借りていたというのである。このように長い間放置していたのを再契約したのが享保一九年の一三年前、享保七年であったということになるが、放置してから六九年後に再契約が成立したというのはいかなる理由によるものであったであろうか。
 これは八代将軍徳川吉宗が、享保の改革を断行したその段階で同四年に「相対済令」を発令した。鎌倉・室町幕府の中世代には徳政令という契約破棄令が幾度か出されているが、享保の相対済令は幕府は関与せず、当事者相互間において話合いの上解決するというのである。この法が出たことにより、これによって山村家と山口村の間において、元米七〇俵に三割の利息米二一俵とし、計九一俵を一三年間に七俵ずつの均等年賦によって返納するよう示談が成立し享保一九年に皆済したということである。
 木曽の村々のうちで一番の米生産地である山口村が、山村代官より七〇俵の拝借米をし、その利息米の年賦返済も出来なかったのである。このような実情からみると、百姓は米の生産者でありながら、米を十分というまでも食うことが出来なかったことが、事実であったことがわかる。江戸時代は藩により、また同じ藩内であっても所により実情が異なるので、一概でなくその村の実情について当ってみないと確かなことはわからない。
 山口村は江戸初期から米納で九一石七斗二升八合を定納で上納してきた。しかし木曽には村高が結ばれておらず、年貢高のみ示されているのみで、年貢の項でみてきたとおり、生産高に対する年貢率などその内容を知る資料が全く見当らず、数字による解明が全く出来ない。田畑の面積や、反当り年貢高がわかるのは享保の検地以後のことである。承応元年に七〇俵の拝借米をした理由もわからないが、寛永一九年の飢饉から一〇年を経過しており、当時の被害から立ち直っている時期と思える。こうした事情から、山口村の食糧事情がどのようであったか、みてみたい。当時の山口村の生産高の分かる資料は見当らない。享保の検地後は耕地面積、耕地等級別の反当年貢はわかる。しかし耕地の等級別生産見積高を示す石盛は木曽にはない。従って村の生産見積高(村高)がわからない。そこで山口村の生産見積高の見当をつけるために、山村家の東濃地区にある領地の石盛を山口村の石盛に仮定してみることにする。それは木曽に隣接する村々であるから山口村と大差ないと考えられるからである。
 そこで計算の基礎となる資料に山口村八重島宮下仁左衛門名請の検地分帳がある。そしてこの耕地の収穫高を記録した寛政四年、同五年、安政五年の三年度分の「米の覚」書がある。まず検地分帳の末尾に等級ごとの田・畑反別が集計されている。これに山村家領地の石盛を充てて生産高を計算すると第33表のとおりになる。
 これによると年貢対象となる生産見積高は、一二石六斗四合となり、「寛政四年の米の覚」の実収穫高は一二石九斗二升で、ほぼ同じような数量になる。

享保9年の検地分帳の等級別反別(宮下敬三氏蔵)


「米の覚」(山口地区宮下敬三氏所蔵)

(表)第33表 山口村享保9年検地分帳の推定生産高
(山口地区宮下敬三氏所蔵文書による)
 そして享保一一年の年貢高は、検地後三年間の平均高をもって五カ年の定納と定めているから、この年の生産見積高に対する年貢高をもって、山口村の食糧事情をみてみることにする。
 享保一一年の田畑の等級にあてはめて、それぞれの反別の見積生産高を計算すると前頁の第34表のようになる。田・畑の見積生産高の合計は次の通りである。
(表)第34表 享保11年山口村田・畑推定生産高
註 屋敷地へ年貢4石605は生産高計に除外してある。
 田の分  六一五石六斗二升八合
 畑の分  一五七石五斗七升二合 (屋敷地の年貢高四石六〇五は除いてある)
 合計   七七三石二斗 ……①
そして右の見積生産高に対する年貢高は次のとおりである。
 本年貢米 一九五石一斗八升五合 (年貢米のうちには屋敷地の年貢高四石六〇五を含んでいる)
   口米 五石八斗五升五合五尺五才
 計上納高 二〇一石四升五勺五才……②
 ①の見積生産高七七三石二斗から②の年貢高二〇一石四升五勺五才を差し引いた額五七二石一斗五升九合四勺五才が百姓の手許に残る量であるが、このうち米として残るのは畑の収量一五七石五斗七升二合を差引いた四一四石五斗八升七合四勺五才で、畑の収穫物である小麦・大豆・小豆・きびなどの雑穀や、いも類・野菜類である。
 年貢を上納したあと、村民の手許に残る数量が一人当りどの位になるか、みることにする。
 イ 収穫見積高から、年貢上納高を差引いた残額で、村に残る分である。
   773石2斗―201石4升5勺5才=572石1斗5升9合4勺5才
 ロ 村に残る分を人口671人で除すると、1人当りの1年間の保有量が出る。
   572石1斗5升9合4勺5才÷671人=0石8斗5升2合6勺9才
 ハ 1人当りの量を365日で除すると、1日当り量は次のようになる。
   0石8斗5升2合6勺9才÷365日=0石0斗0升2合3勺3才
 以上の計算は、田と畑の収穫見積による計算であるが、田からの収穫物である米とその2割程度とみられる大麦の1人当りの分量をみてみる。
 ニ 615石6斗2升8合―年貢米201石4升5勺5才=414石5斗8升7合4勺5才……米のみの残量
 ホ 414石5斗8升7合4勺5才÷671人=0石6斗1升7合8勺6才……1人当りの年間保有量
 ヘ 0石6斗1升7合8勺6才÷365日=0石0斗0升1合6勺9才余……1人当りの一日分
 検地後の年貢米上納後の食糧事情を数字の上からみると、右のようになる。これではなんとかお粥がすすれるといった量で、昭和の第二次大戦中の消費者の一日の配給量に匹敵する。当時の木曽の年貢率は三〇パーセント以下であったと推量され、他に比して高い率とはみられないが、耕地の面積が田六五、畑三五という比率で、畑の面積が全体として多いのも生産高の低かった原因ともみられる。検地後はなるたけ金納に願い八〇パーセント位が金納に許された。貢租の項に金納一覧表を掲げてあるから参照されたい。藩では遠方の村の年貢米は藩倉庫に納入せず、「所(ところ)置米」として地元の郷蔵に置き、藩用の扶持などの支給に当て残米は、地元の要求に応じて金納値段で払い下げをした。山口村では毎年次に揚げる払い下げ申請を提出して、残米有高の大半の払い下げをうけた。
      乍恐奉願上口上
 一山口村惣御百姓奉願上候ハ、連々困窮仕、当年之作食ニ指詰り申候付、去子年御年貢御蔵有米二十二石三斗三升不残去年之金納御直段ニ被為遊、延金ニ御借し被下置候様、御慈悲と被為 思召、願之通被為 仰付被下置候様奉願上候
 右奉願上候通被為 聞召分宜敷被為 仰付被下置候ハゝ難有仕合ニ奉存候以上
    寛政五年丑正月                       山口村庄屋 両人
     御奉行所                            組頭 四人
右の申請に対して次のとおり借用が許可になった。
      覚
 一米十八石三斗三升   去子年当村御蔵米ニ而
  右ハ当作食として御借被下置難有奉請取候、夫々御百姓共え配当渡、御陰を以諸作仕付させ可申候、御返上納之儀ハ当月中ニ、去子年金納御直段を以代金ニ而、御差図次第指上可申候、為其如此ニ御座候以上
     寛政五年丑四月                      山口村庄屋両人
        御奉行所                         組頭四人
この年の蔵米、山口村ほか次のように渡されている。
      覚
 一米二十二石三斗三升  子年山口村御年貢米
     内
   十八石三斗三升   山口村へ当作食
   三石        馬籠村え(作食)
   一石        児野九郎治殿へ御渡(岩郷村住人木曽薬草取締方)
  右渡方御奉行様四月五日湯舟沢村より御出、御徒士小島与右衛門
 検地当時の戸数一〇五軒中、検地帳に登録された軒数は八三軒で二二軒は、田畑を持たない家であり、その二〇年後の宝暦年代には戸数一一八軒と増加するが、高持(年貢を納める者)は八三軒と変わりないから、食糧事情は苦しくなっていく。検地後年貢米から払い下げ状況を記録のある限り掲げると第36表のとおりである。
(表)第35表 山口村作食拝借表
(表)第36表 山口村郷蔵米払い下げ状況(山口村外垣萬留帳)
 安政六年は不作で米価は両に四斗五升に高騰した。平年の約二倍にも当たる。四月に山口村は、次のような蔵米の拝借願を出している。
 当村百姓の内、特別困窮の者は飯米等、毎年四、五月ころよりは、米所持の者より秋作取り入れまで、飯米等前借して諸作を裁培しているが、当年は穀類高値になり、従って米は少なく難渋の者当秋まで飯米を持ちこたえられるかと極心配しております。もとより恐れ多いお願いですが、お蔵米を例年拝借しておりますが、今年に限って特別難渋の者に配当する分を例年より一二俵増しに拝借をお願いしたい。
 しかしこの年は一般に米が少なく拝借出来たのは、一七石四斗で、昨年より三一俵少なかった。
 この年尾張藩は「米価高値に付」として、領内に触を出し、山村役所にも村中に触れるよう次のように達した。
 米価高値ニて、下々格別難渋の時節ニこれあり候間、上下共粗飯を相用い、米穀の不足を補い申すべく儀は素よりの事にて油断はこれあるまじく候得共、なおさら外見等を厭わず、小前の者は勿論身上柄宜敷者までも、召使共、思わく等斟酌致さず粥或雑穀等粗食を用い、飯料相延し、米穀融通相成候様に致すべく事
 右の通り篤と相心得、小前の者は触書にては行届兼候間、前書の主意所役人より能々申諭べく事
     (万延元)申十一月