中津川市/古文献アーカイブ

山口村誌 上巻(第四章 近世)

第四章 近世

第六節 村民生活

四 村の道

 正保元年(一六四四)幕府が調製した信濃国絵図によると山口・馬籠村の道は次頁のように描かれている。馬籠村には中山道が通じている。山口村には妻籠村からの道と馬籠村に至る道が描いてある。そして馬籠道から分岐して湯舟沢村に通ずる道がある。田立村は木曽川を隔てている。きびうの渡しから坂下村を経て通じていた。妻籠道は大又沢に沿って立野山を越えた。

正保元年信濃国絵図の山口村(長野県史附図より作成)

 寛文四年(一六六四)尾張藩木曽巡見奉行佐藤半太夫が来村の際提出した文書に、隣村までの里程の書上げがある。村からの起点は、外垣庄屋宅前の高札場になっている。
 落合宿まで  一里三三町四七間(七六一二メートル)
 田立村まで  一里三二町一七間(七四三五メートル)
 妻籠宿まで  二里      (七八五四メートル)
 馬籠宿まで  一里一四町四〇間(五五二七メートル)
落合道は「轟沢(とどろきざわ)」が村境で、また美濃国境でもあった。轟のせりには高さ二間三尺程、周囲四間三尺程の大石があると記している。また宝暦六年尾張藩の書物奉行松平太郎右衛門は木曽の地誌調査に巡村し、翌七年「吉蘇志略」を編纂したが、轟沢の景観を次のように記している(原文は漢文である)。
 河岸は石の坂道を巡って人馬が往来している。岩石が累積した岩の下を谷水が潜って流れているのであろう、ただ水声が聞える許りである。その下流が河に入るとき始めて滝となって飛散する。不思議な景色である。
 きびうから落合境に通ずる道は、幾筋かの沢を越えている。地勢が急傾斜地であるので、下流では沢が深くなっているので、道は沢の深い場所を避けて通っているので上り下りがある。江戸時代の村内道路の橋は、橋幅も狭いこともあって、そのほとんどが丸太を投げ渡し橋が多く、またそれに板を張ったり、板橋、土砂を敷いた土橋などで、橋脚を設けた橋は少なかった。嘉永二年(一八四九)三月福島役所に提出した橋の書上げには、村内二一ヵ所の橋がある。このうちきびうが三〇尺(約九メートル)次いで宮の外(そで)二四尺余(七・二七メートル)と長いがあとは短い橋ばかりである。
(表)第32表 山口村の橋
(嘉永2年外垣庄屋萬留帳)
 馬籠村には中山道が妻籠より落合に通じている。享保六年の馬籠村の覚書(蜂谷保氏蔵)によると、馬籠宿から妻籠宿まで二里(七・八五四キロメートル)であった。落合宿まで一里五町六間(四・四八二キロメートル)、落合村境は新茶屋一里塚より六間(一〇・八キロメートル)手前となっている。馬籠村の橋は、峠橋四間、井戸沢二間、岩田橋三間、塩沢橋二間、下町入口橋二間、橋詰橋二間の六ヵ所になっている。