中津川市/古文献アーカイブ

福岡町史 通史編 下巻(第五部 近世)

通史編 下巻

第五部 近世

第一章 近世における苗木藩の概観

第七節 交易・経済

二 経済

江戸時代を通じて、農民がもっとも怖れたのは自然災害そのものであった。稀にみる天変地異はいうに及ばす、飢饉・疫病とのたたかいである。近世三百年に亘る永い歳月の間には、冷害・風水害・干魃・長雨・病虫害などの自然災害によって、忽ち農作物が不作になり凶作へと至るのであった。しかもこの飢饉の発生には、為政者の政治経済のしくみの不備や、交通の支障によってその災害が増大されること極めて頻繁の有様であった。江戸時代の全国的な大飢饉は、享保・天明・天保の三大飢饉とされる。これらの飢饉をはじめ大小の飢饉は、その多くは冷害による凶作が直接の原因であった。享保年間からの高山村庄屋見聞日記にも、宝暦一二年(一七六二)「四月十七日、田瀬村あられ降り申候、大栗ほどつつ有之」と記し、また明和四年(一六七六)「四月七日の夜の霜、八日の朝殊の外当り、下切・向知原・木積沢・蛭川之内いしきなど、麦の穂出不申、草麦にて刈り取……困窮仕り申者御座候」とあって、たびたびの飢饉に村人は、〓・栗・山午蒡・りょうぶ・ぜんまい・わらびなどを採り、寒中には蕨の根まで掘って食べた。
 寛永の飢饉につき隣町『付知町史』は、「寛永一八年(一七六七)は、旱魃が続いて水稲など収穫皆無、秋には例年より早く大雪が降り、大地は凍み抜いて竹木まで枯れ、鳥獣も痩せ疲れて飢え死にし、鹿の皮も紙のように薄くなった。翌一九年は全国的な飢饉になり、村人は蓆わら・葛葉の類まで食糧にして露命をつなごうとしたがその甲斐なく、餓死した者は加子母村七〇〇余人・付知村九〇余人・田瀬村五〇余人、その他、牛馬等の家畜・山野の鳥獣など屍(しかばね)となって川原に押し出され、飛び石のように散乱し、まさに生き地獄の様相であった」と述べている。飢饉の多かった江戸時代、「りょうぶ」という木の若葉は、非常時に命をつなぐ大切な代用食糧であった。左は安永九年(一七八〇)苗木藩が村方に対し、りょうぶ摘みを下命したときのもので、仰せつけられた高山村庄屋が、代官所へ報告した組ごとの採取量である。
     りやうふ覚
一、壱貫五百目政五郎
一、八貫三百め重助
一、七貫め岩右衛門
一、拾五貫五百め清五郎
一、五貫め平七
一、八貫め次助
一、八貫三百め半右衛門
一、八貫六百め善兵衛
一、拾四貫め甚右衛門 
     〆七拾六貫弐百目
     子六月八日      甚右衛門組
     外ニ
一、十九〆六百目吉兵衛
一、拾五〆弐百目安平
一、拾八〆弐百目吉右衛門
惣合六百四拾六〆五百目
 此石三百弐拾三石弐斗五升
    一升廿匁つゝ

       安永九(一七八〇)庚子ノ年六月十日ニ書上ル
   右之通、当春被 仰付候れうぶ銘々高、相違無御座候 以上
                           与頭
                           庄屋
井沢武平治 殿                                            史料編二九四