中津川市/古文献アーカイブ

福岡町史 通史編 下巻(第五部 近世)

通史編 下巻

第五部 近世

第一章 近世における苗木藩の概観

第五節 農業

六 林業

山論(やまろんともいう)というのは、山林原野の帰属をめぐる村落間の争いのことである。村々では、御立山を除けた林地は、村人が自由に山林採草地として村持ちとした。平山・惣山と呼んで村ごとに維持管理のための規約を決めて、紛争が起こらないよう図ったが、新田開発が進み農家戸数が増え、採草地が次第に山奥まで追いやられるにつれ、利害の対立が表面化して、しばしば争いが起こった。江戸時代中期以降は入会の使用権をめぐる争いも加わって、どこの村でも頻発した。
 下野村は延享二年(一七四五)一一月、苗木藩より大部分が上地せられ、幕府直轄地(天領)となったのである。ただし下野村全村が天領になったわけではなく、村が分村して戸数四六戸、高二九二・九八石の上地処分を受けたのである(残地戸数三二戸、高七九・七石は隣接する上野村庄屋の管轄)。したがって、山境について下野村と福岡村、田瀬村、上野村、坂下村は各村の庄屋・与頭・五人組頭・百姓共迄も立会い境目に朱引きすることとなった。なお、福岡村柏原山、田瀬大萱山は古来より入会山ではないが、今迄通り用捨して木草薪炭など取ることを連印して、取極めがなされたわけである。しかしながら、西山と称する柏原山・大萱山については、下野村が天領となった延享二年より五六年以前にも、元禄二年の田口新兵衛新四郎事件(下野風土記)が、山の境界争いに端を発して悲惨な伝承として残されている。さらに後の寛政一一年(一七九九)には、論訴訟[史料編 二〇三]当時天領であった下野村と、田瀬村・福岡村との間で山争いが起き、裁判は江戸の幕府評定所に持ち込まれたため、西尾屋敷二三代目庄屋を継ぐ勝続(後、三右衛門と改む)は、田瀬村の庄屋たちと評定所に出張、彼の論説が認められ、一三〇年にわたって続けられた山論はここに解決することができた。苗木藩ではその功績に対して苗字・帯刀を許した。勝続は文化一一年、藩命で上京し名倉村の訴訟問題の解決に当たったが、半ばにして江戸で他界した。享年五〇歳、彼の徳を慕って八布施神社境内に、西尾勝続の立派な頌徳碑を建立し、長く氏の功績を称えた。

八布施神社境内の西尾勝続の頌徳碑