中津川市/古文献アーカイブ

福岡町史 通史編 下巻(第五部 近世)

通史編 下巻

第五部 近世

第一章 近世における苗木藩の概観

第四節 住民

五 助郷・伝馬

幕府の定めた五街道(東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道)のうち、美濃国を東西に貫通していた中山道には一六の宿場を設け、中津川宿には天保一四年(一八四三)の記録に「宿内の町並は一〇町七間で、総戸数二二八軒、人口が九二八名、宿内に問屋が二か所あり、宿人馬は五〇名・五〇匹で人馬継立を行っている」とある。実際に常備された馬数は、それには及ばなかった。宿の常備人馬で継ぎ立てできない場合は、近在の郷村から人馬を徴発した。これが助郷である。助郷とは、もともと宿駅の人馬の不足を助ける郷村を意味したが、転じて、助人馬を出す課役を助郷という。中津川・落合両宿への助郷がいつ頃からはじまったかはっきりしないが、中津川宿に残るもっとも古い宿文書(元和二年(一六一六)老中連署の伝馬賃定文書)に「駄賃馬が多くいるときは、在々(ざいざい)の村を動員して荷物を継立てるようにせよ」とあって、助郷制度の初出文書と認められる。初めは、一定の村が指定されていたわけではなく、必要のつど雇い上げられたが、参勤交代制度が確立されるとともに、しだいに制度化されていった。寛永一七年(一六四〇)幕府美濃代官岡田将監善政は領内各村を巡視して、「中津川宿助郷人馬寄付村」を領内各村に命じている。享保期福岡村庄屋西尾孫六郎がまとめた「中津川・落合宿御用伝馬録弐」[史料編 三六九]は次表のようである。両宿の助郷村とその村高が支配関係別に書きあげられ、一四か村あわせて八七八二石九斗五升九合となっており、外に一三三八石六升の中津川村分を入れて、都合一〇一二一石としている。さらに寄付村(助郷村)の後文では寛永一七年辰三月一二日付で、
 ▲ 右村々中津川宿助人馬御役仰せ付けられ、その意をうけ存じ候 何時によらず、中津川問屋より差し図次第、時刻を移さず人馬を出し、御役相勤め申すべく候
と、落合・中津川両宿役人の連名をもって、岡田将監あてに提出している。なお町内の田瀬村は、両宿へ道法(のり)四里半内として寄付村よりはずし、領内の毛呂窪村・蛭川村・姫栗村は大井宿助郷人馬寄付村に指定されている。
 中津川・落合宿では、苗木領八か村は木曽川を隔てて北岸地域にあるので、木曽川増水のときは、駒場村・手金野村・千旦林村など南岸の村々で八か村の人馬も勤め、追って、北岸八か村がその賃銭を支払うこととした。
表10 寛永十七年[中津川宿 落合宿]助郷人馬寄付村の訳
支配関係高    石村名
尾州御領一〇八八・〇六茄子川村
馬場三郎左衛門地行所 二八〇・〇〇同村
尾州御領 五五二・六二千旦林
 同断 七七二・〇〇駒場
 同断 四四六・五四(手金野)
手金
 同断 四八〇・七八落合
(苗木領) 遠山刑部少輔領分 七四五・八九福岡
 同断 三一三・四八八高山
 同断 一〇八・三七瀬戸
 同断 九七二・二〇坂下
 同断 二五二・三五六上野
 同断  八六・四七下野
 同断 九九九・二五日比野
 同断  九五・〇九上地
(岩村領) 丹羽式部少輔領分一五八九・六四阿木
合計       (ママ)
八七八二・九五九
      (七五四)
一三三八・〇六中津川
総計一〇一二一(石)

(福岡村庄屋孫六郎のまとめた御用伝馬録より、県史近世7)


御用伝馬録 水垣文庫所蔵

 この助郷村に課せられた規定人馬は、正徳二年(一七一二)の定で時代とともに交通量が増すにつれ、安永四年(一七七五)福岡村では二一一人、二九匹さらに幕末の落合宿へ安政五年(一八五八)中に高山村では二九〇人、九〇匹となっている。この人足は、合宿の中津川宿についてもそれ以上が課せられ、文久元年(一八六一)和宮様下向に際して福岡村の割り当ては、
 ▲    文久元辛酉年 和宮様御下向ニ付 福岡村え人馬当り高取調左之通
  一、高七百四拾五石 人足九百八拾壱人
            馬五拾六疋           [遠山美濃守領分濃州恵那郡]福岡村
             但、百石ニ付 人足百三拾壱人七分つゝ
                   馬七疋五分弐厘つゝ
とあって、一〇月、一一月に行われており、中山道にとっては開設以来、前代未聞の大通行であった。このことは、助郷制度による村や農民にとっての最大の苦痛であり、郷村の疲弊はますます大きくなるばかりである。

高山村助郷人馬請払帳 高山区蔵