中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第九章 幕末の中津川

第四節 苗木領政の動揺と改革

三 幕末苗木領政の動向

青山行政の推進の前には一つの問題点があった。それは元給人層との不協和音であった。明治三年(一八七〇)一月一二日、藩知事の日記には「今日用之儀有之ニ付 士族初歩 卒ニ至迠正五時惣出仕之事」とあるように士族一同が総出仕となった。そこへ遠山藩知事・大参事・小参事が出席し、青山直道より監察・小監察一同に進み出るよう命じた。四人は脱剣して敷居内に進み出た。そこで中原央(なか)が呼出され、直道より疑惑の筋があるので糺弾仰付る、監察に究明するよう言渡して、直ちに監察局へ引連れ手鎖腰縄にしておいた。続いて千葉武男・千葉鐐五郎も同断であった。
 さらに千葉権右衛門も疑いがあるからということで、召捕えられ家宅捜索も受けた。この時同じように召捕えられ家宅捜索を受けたものは、神山健之進(猿渡隠山)、千葉侑太郎・八尾伊織(神官)・中原彌學・中津川宿の陰陽師横谷要人・大島五左衛門の計一〇名で、八名は入牢・二名は親類預けの仮処分を受け、取調べが進められていった。
 同年一月二五日、千葉権右衛門・猿渡隠山・千葉侑太郎・中原央・千葉武男は刑罰のため家財・田畑共に没収され、その家族は親類に引きとられて謹慎を申付けられた。
 では一体こうした処断がなぜ行われたのか、また疑惑とは何であったか、これらの罪状のわかる裁許状(裁判の判決書)によってみることにする。
 千葉権右衛門への裁許状には、勤役中に悪だくみの所業が多く、藩内に動揺を与えたので明治元年(一八六八)秋七月蟄居申付け、近親とも対面禁止していたが、ひそかに徒党を結び自ら中心人物となり、ありもしないことや根のないうわさを流して、悪だくみで衆人をせんどうし、その上屢々朝廷官人をのろい殺そうとした。それに加えて(中原)央の悪だくみにくみし、明治二年(一八六九)の六月今井七郎左衛門が東京に於て事故死したのは、青山大参事のやったことと事実を偽っていいふれ、藩政をくつがえそうと企てたこと、もっての外のことで、こうした罪状の趣を刑部省へ伺いの上、指図に従って終身流罪を申付けるという内容であった。これによってわかることは青山氏の失脚をねらっていることがわかり、それへの弾圧とみることができる。
 他の者たちも同じような罪状によって処分を受け、さらに八名が追加処分された。それを内容別に見ると、終身流罪が四名・五年流罪二名・三年徒刑一名・三年徒罪三名・二年徒刑一名・隠居申付二名・親類預一名・永蟄居二名・謹慎二名・また家族のうち六家族が謹慎処分を受け、流罪者五名は刑部省送りとなりこの一件は落着した。