中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第九章 幕末の中津川

第三節 民衆の動き

一 中津川商人の活躍

木曽谷へは中津川から諸物資が移入されていた。これらの荷物を取扱っていたのは中津川の問屋で、荷物の運送に従事していたのは主として峠[山口村馬籠]の牛方達であった。今迄入荷出荷(いりにでに)とも付送りを取扱ってきた中津川の問屋に対して牛方仲間が団結し、荷物の付出しを拒むという争議であった。こうした事態の収拾のため安政三年(一八五六)八月六日、中津川問屋他一名が馬籠宿役人に仲裁を依頼をした。牛方の方はこの件について口を割ろうとはしなかったが、問屋の荷物送り状の書き替えや駄賃の上刎ねの不都合の取扱いが原因であるらしいことがわかった。
 三日間にわたって、毎日のように双方の間に立って、また第三者も参加し調停が行われた、しかし一向に解決しそうもなかった。
 同月八日に至って峠組頭が付添い、牛方年行司十二兼(木曽)の牛方の三名が仲裁者に万事任せることを伝えに来た。しかし問屋だけは替えてほしいとの事であった。それだけはむつかしかろうと押え、中津からも人が出張しているから「折合篤と評議の上 隨分一札も取り 此後無理非道も無之様取扱可申由聞候」と説得したが、牛方の言い分は此度の一件は、この近辺の一同の申合せであるから「私共計にて御利解の趣御任せにも不相成候」と外々へも右の趣飛脚をもって申送り候上にて宜敷頼むとのことであった。付荷拒否は長年にわたる問屋に対する不満で、根強くまた広範囲の支持のもとに行われていたことであった。
 [牛方より申出事項] 牛方の申出の事項は凡そ次の様な内容であった。
一 今迄の駄賃は送り状を包み隠し、控の付(つけ)にて駄賃等書込みにして別に送状を認め荷主方へ送付、今後は有体に、実意にして送り状も見せるなどに深切(親切)に取扱ってくれるなら一同安心する。
一 牛方の中でも平生心安いものは荷物もよく、又駄賃等も贔屓(ひいき)にして呉れるが、向きに合はない牛方等は、格別不取扱にて、頼み奉ってその上でないと附送り方に廻して呉れない。是も出入牛同様に不憫を加へ、荷物を早速出して頂きたい。
一 大豆賣買の場合、一駄四五〇文と問屋の利分を定め、その余は駄賃として牛方へ下されたい。
一 送り荷の運賃、運上は一駄一分割と定めもあることであるからその余を駄賃として残らず牛方共へ下されるよう、今後御取極めにしてほしい。
一 通し送り荷駄賃、名古屋より福島まで半分割の運上引き去り、その余は刎ねなく下されること。
一 荷物送り出しの節、心安き牛方にても初めの牛方でも同様に取計い、すべて今渡の問屋同様に依估贔屓(えこひいき)することのないようにする。
一 すべて荷物問屋に長く止メ置いては荷主は催促し甚だ牛方にて迷惑難澁するので早速御送り方取計られるよう。
 この様に調停者側でまとめたが、他村の牛方から強い抗議が出て交渉はしばらく行き悩んだらしい。
 紛争が長引いているうちに下海道の荷主側からも新問屋で荷物を依頼するといったり、瀬戸物商人も新規の問屋を立てることに話を運んでしまった。このようにして牛方の争議は八月六日から二五日まで続き、新しい問屋が生まれ牛方の勝利に終った。長い間木曽谷に力をもっていた中津川の問屋も、足許から大きく動いていく新しい時代の息ぶきを感じるようになった。「夜明け前」にも牛方争議として詳述されている。