中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第九章 幕末の中津川

第二節 東山道軍

二 東山道軍

新政府は東征軍を進発させたものの、莫大な軍資金を必要とし、その調達には苦労をし、豪商たちにその御用金の調達を命じた。その中心になったのが三井・小野・島田などの富豪たちであった。当時この地方では中津川の商人がねらわれないわけはなかった。中津川宿の福島屋へも次のような書状が届けられた。「(略)然者今般御復古ニ付而(て)者 金穀出納所御為替御用被仰付候ニ寄手前衆幷三井三郎介・小野善介共御用相候ニ付 此度北陸東山両道へ手代共両人鎮撫使御差添下向被仰付今日出立及致候 右ニ付御地へ相廻り可申候ニ付 御用談の節可申上茂難斗候間 其節御取合可成下候様奉願上候右之段御願申上度如期ニ御座候」(中津川市捫垣家蔵)、という内容で正月二日付蛭子屋八郎左衛門となっている。
 王政復古の直後に三井等を金穀出納所御用達とし、慶応四年(一八六八)正月より閏四月の間に会計基金三〇〇万両大坂行幸費五万両、関東鎮撫費一五万両、合計三二〇万両を半ば強制的に三井・小野・島田・その他の京坂の大金持から借り上げた。
 従ってこの書状はこれらの莫大なご用達金の一部據金依頼であったと考えられる。なおこうした據金は福島屋だけにかぎらず多くの商人たちに依頼のあったことは当然考えられる。ちなみに福島屋とは中津川で生糸・酒屋を生業とし、茶等の商売を行い繁昌した商家であった。
 また一方東山道軍の大通行となると、各宿とも旅客用の夜具蒲団(ふとん)・膳椀等の取り調べ・不足分の調達・また多数の松明(たいまつ)の用意等、これらは直接宿役人、さらには近所の農村への負担となってきた。
 この総督通行のために、湯舟沢村は米五〇俵を白米にして二月一四日までに馬籠宿へ運びこむことが命ぜられ、お膳は一九〇人前、お椀は一一〇人前を用意させられている(木曽路文献の旅)。
 また夫役の割当も苛酷であったことで、諸経費の支払いもとどこおった様であった。「廿八日(前略)諸大名方御通行無之候 高遠殿様(内藤紀伊守)当宿御泊り 諸色御引受ニ付 人足買立賃銭不足ニ付大難渋 大井宿受人足幷諸人足共 笹屋ヘ詰メ喧嘩口論ニ而気之毒ニ存入候 如何相成候哉(略)(大黒屋日記)」全軍の諸勘定を引き受けた高遠では、人足買上げの賃銭が不足して容易に宿場から出発できなかったり、大井の請負人足たちが賃銭分配から喧嘩口論するなどのトラブル、また通行後のもろもろの後片付けと負担は大きかった。