中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第九章 幕末の中津川

第二節 東山道軍

二 東山道軍

尾張領主徳川慶勝は、尊王攘夷論者で早くから国事に奔走していたが、維新に際して内勅を受けて帰名し近接する諸領主・旗本に、臣下を遣わして勤王誘引を行った。苗木領もこうした尾張領の動きに強き影響を受けた。
 慶応四年(一八六八)二月五日尾張領の勝野正太郎・杉邨壽目蔵・板野又三郎の三人が使者として来苗し、家老伊藤杢允と青山稲吉に朝命の趣があるから重役一人を名古屋へ派遣するようにという書を交付し招請した。伊藤杢允は派遣承諾の請書を渡し、同月八日伊藤杢允・大目付東侑之進の二名が名古屋に向け出発した。尾張領では集会した諸領の重役に対し勤王を勧誘し同月一三日勤王の「仮証書」を提出させた。この「仮証書」の内容は朝命の趣意をかたく遵奉して勤王の志を起すからには、近隣の諸侯と申合せ、勉励努力することを前書とし次の五項目を示している。
 一 賊徒の征討及び非常の事態が生じた節は、「御家(尾張家)」の指揮に従って出兵すること。
 一 たとえ幕府の要請があっても「御家」へ伺った上でなくては、その要請に応じないこと。
 一 隣接する徳川の領地などの取締についても尾張領の指図をまつこと。
 一 役向きの者一人を尾張城下に詰めさせること。
などを箇条書し、誓って遵奉するというものでさらに
 一 一旦帰国の上、重役一同の連印した請書を差出すべきこと。
を付加したものであった(苗木藩政史研究)。伊藤・千葉の両名は連名し「仮証書」を提出した。しかしそれ以後苗木では、この仮証書をめぐってその不当性が指摘され、改めて小倉猪兵衛・青山稲吉・水野新兵衛を名古屋へ送り再度証書の提出ということとなった。
 三月五日右の三人は、遠山家領主の証書と重役署名の請書の二通を持参した。領主の証書の内容は「早速東山道総督の御陣へ行き、情実を申上げ勤王の実効を立てた。その時申上げたことは、私は祖先以来数百年にわたって土地・人民を預り家名も連綿莫大の天恩を受けた。今迄は幕府の指揮に従い何一つ実効のなかったこと申訳なく思う。王政復古になったことは大変な喜びで勤王の事は勿論朝命を奉戴して粉骨砕身御奉公したい。私は微力であるが領内の者も同じ心であることを朝廷へ『御執奏』願いと申し上げてきたので尊家(尾張徳川家)から『御執奏』お願いする」というものであった。従って文言は二月三日美江寺で東山道総督に出したものと同じで、前後のつけ加わりが異なっているのみである。
 しかし三月一〇日青山稲吉が帰苗し、右の証書は六か敷書かなくてよい、唯実印がなくては駄目だから認め直し差出すようにと指示を受けたと伝えたため、内容としては前証書の後半の一部分を記した簡単なものであった。
 今一通は重役の請書も前記領主の証書と大差ないもので、末尾に家老の小倉猪兵衛と千葉権右衛門の連印がある。
 このように尾張徳川家の勤王に果した役割は大きかったが、苗木遠山家の維新期における積極的な政治姿勢も高く評価されてよい。