中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第九章 幕末の中津川

第二節 東山道軍

一 赤報隊

中津川宿を発った赤報隊のその後は、湯舟沢の島田家の「年間諸事留帳」によると、まず先鋒隊の高松卿は一月二五日通行妻籠橋場泊りで清内路を通って飯田へ出られた。赤報隊の本隊数百人は二月朔日中津川泊りで、二日妻籠橋場泊りにて清内路を通って飯田へと記されている。この様に清内路から飯田へ、その後は伊那路を下諏訪へと進んだのが六日であった。
 この頃京都から一通の手紙をたずさえた同志金輪五郎が急行した。その用件は同志からので、滋野井・綾小路両卿はすでに京都帰還を命ぜられ、引続いて会津攻略の総督の命をうけているので、急ぎ引返しその指揮下に入るよう、赤報隊についてはとかくの問題が起っているので、この際自分の忠告を聞き入れて欲しいというのであった。
 しかし下諏訪に着いて一日たって八日、大垣の東山道総督から相楽に出頭命令が出た。大垣に出頭した相楽は赤報隊は今後薩摩領へ委任という沙汰と、同時に関東方面探索の命を受け、下諏訪に帰陣したのが二九日の夜、また総督からの呼び出しを受けた。この頃総督は予定より遅れたが二九日未明下諏訪に入った。相楽の呼び出しはその夜であった。総督本営に出頭したとたん直ちに捕縛され、三月三日下諏訪宿外れの友之町矢木崎の刑場で斬殺された。
 そのときの処刑の模様は、岩倉総督に同行した落合宿の鈴木利兵衛茂門(しげかど)の手記「宿駅取締日記」によってわかる。「三月朔 下諏訪着 江戸屋泊り 此夜(誤二日夜)赤報隊召捕ニ成」とあり茂門の写しとった相楽への宣告文である処刑の高札の内容を要約すると、「勅命と偽り官軍先鋒嚮導隊といい総督府を欺き勝手に進軍し、その上諸領主へ応援をこい、或は良民を動かし、莫大な金をまきあげるなどいろいろ悪業をかさねた。このままうちすてておいては大変なことになるので、処刑する」という趣旨であった。さらに「誅戮梟首の上遍(あまねく)諸民に知らしむる者也」として大木四郎他六名があがり、そのあとに「右之者相楽総三ニ組し同文(相楽総三の宣告文)」と罪状があげられ、つゞいて「片鬢片眉を剃落し曝(さらし)之上追放」とし三浦弥太郎他九名その罪状は相楽総三に組したので厳刑に処すべきであるが、格別の哀れみをもって死罪一等を減ずるとしている。生々しい記録がいかにも痛ましい感じがする。
 これより先、赤報隊の通過した近江その他の諸領に東山道鎮撫総督から次の如き布告が出された。今市岡家にある文を紹介すると、
 
 近日滋野井殿 綾小路殿家来抔(など)と唱江 市在ニ俳徊致米金押借里 人馬賃銭不拂者も不少趣 全ク無頼賊徒之所業ニ而 決して許容不相成候 向後右様之者於有之者 捕ヘ置早速御本陣ヘ可訴出候 若手向致し候者 討取候とも不苦段、被仰出候事
 但し此度 岩倉殿家来抔(など)と偽り 右等之所業ニ及候者可有之哉茂難斗候ニ付 聊無用捨同様之取計可致旨御沙汰ニ候  事
 
     東山道鎮撫総督              執筆
   戊辰正月               東山道諸国宿々村々    役人中
 
 これによると官軍先鋒隊の名をかざし、諸所を荒し廻り金穀を掠奪したり、人馬賃銭も払わない無頼漢であるときめつけ早速捕え差出すよう、時により討取ってもよいという、赤報隊にとっては予想だにしないきびしいものであった。こうして赤報隊は前述したように悲惨な結末となった。