中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第九章 幕末の中津川

第一節 国学と中津川

三 水戸浪士の通行-天狗党-

「…景蔵(市岡殷政)と香蔵(間秀矩)とがわざわざ名ざしで中津川から落合の稲葉屋まで呼び出され、浪士の一人なる横田東四郎(藤四郎)から渋紙包みにした首級の埋葬を依頼された時のことも、まだ二人の記憶に生々しい。これは和田峠で戦死したのを是迄渋紙包みにして持参したのである。二男藤三郎、当年十八才になるものの首級であると言って実父の東四郎(藤四郎)がそれを二人の前に差し出したのもその時だ。景蔵と香蔵と相談の上、夜中ひそかに自家の墓地にそれを埋葬した。…」これは「夜明け前」の横田元綱の首級の埋葬方を市岡殷政・間秀矩に依頼したときのくだりである。
 横田藤三郎の首級の埋葬方を依頼された市岡殷政らは、後からの心配事等も覚悟で承諾し、夜中密かにこれを自家の墓所に葬った。
 この横田元綱の墓は中津川市実戸地内にある。墓石は方形の台石の上に径四五cm・厚さ十八cm程の扁平円形石で正面に「横田元綱之墓」の六字を刻してある。その傍に高さ約二m・巾一mの顕彰碑が建っている。正面には「贈従五位横田元綱瘞首碑」大正五年(一九一七)四月建立とある。

Ⅸ-4 横田元綱の墓

 この地は墓地ではなく所有地を購入し建碑したものであるといわれているし、その後昭和五〇年代に入って国道一九号バイパスの敷設工事の折、その碑も少しであるが移転をした。
 横田元綱は通称藤三郎で、栃木県真岡市の生れである。父は横田藤四郎祈綱でその三男、幼少は医者を志し大和田外記の許に学んだ。祖父・父ともよく学問をし勤皇一家でも知られた家であった。こうした環境の中で教化され育った元綱は水戸浪士との交友もあったといわれている。
 元治元年(一八六四)三月、水戸浪士は尊攘を唱え藩籍を脱し旗をあげ朝廷に奏上しようと小川館(水戸藩の郷校)に集合して義兵を募った。その統領は田丸稲之右衛門、藤田小四郎であった。元綱も師外記に従って攘夷の盟約に入った。時に年一八才であった。たまたま父祈綱も四男彌六郎綱雄(六才)を携えて投合し奇遇を喜んだ。
 元綱は大和田外記の奇兵隊に属し、奮戦後武田耕雲齋が西上の途につくと、父祈綱や師外記等とともに随行し各戦で転戦し、和田峠で松本領・高島領の連合軍と戦った。迎えうつ連合軍に有利で、戦況は苦戦で形勢は寧ろ悲観すべき状態にあった。こうした中で武田勢の軍師山国兵部は土民に質して地形を判断し、百目砲を本道南側の山上に引上げて敵を攻撃し、又武田魁介の率いる奇兵隊二〇〇人を以て、本道から北側の渓谷を対岸の積雪の山上を迂回し敵の左側背後を襲わさせた。この奇兵隊の中に横田元綱があり進み掛かったとき、大砲の玉が胸に当って即死したといわれている(芳賀勤王志士伝・波山始末)この首級を父祈綱が持参し市岡殷政らに後事を托した。元綱は兜首二をとり陣中に帰ったが、手疵重く切腹したとの説もある(殷政・甲子詠草)。

Ⅸ-5 市岡殷政肖像(水垣清氏提供)


Ⅸ-6 間秀矩肖像(水垣清氏提供)