中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第九章 幕末の中津川

第一節 国学と中津川

一 国学と中津川宿役人

新町元料亭「やけ山」宅跡に、「桂小五郎隠れ家址」という一札が立っている。その内容は「このあたりに昔料亭「やけ山」があった。文久三年(一八六三)六月長州藩士桂小五郎(木戸孝允)は、京都に向う藩主毛利慶親(もうりよしちか)公の行列を待つ間、幕吏の目をのがれて中津川の平田門人間秀矩や市岡殷政の好意で、秘に「やけ山」に隠れ待機した。やがて中津川会議三日の結果、桂の主張によって長州藩は尊王倒幕へと決断した。明治変革の秘史を物語る場所である。」という中津川市観光協会の説明文である。概要は文久三年六月桂小五郎が、江戸から上京中の長州領主毛利慶親を中津川の地で待ち受け、三日間会議をし長州が倒幕を決定したという重要会談が(中津川会議・会談ともいう)なされた所であるとするものである。
 この事の真偽の程については早断することは差し控えたい。しかし長州藩の通行については文久二年(一八六二)の「大黒屋日記」には「六月二十日 天キ雨乞 八ツ過暫大雨降 鉄砲水 長州様流行麻疹にて 諏訪宿に 三日御逗留にて 御同勢四百人程後へ残り 今朝御通行 昨夜三留野宿お泊りにて当宿(馬籠)お昼 中津川お泊り 明二十一日彼地ニ御逗留と申す事に候」とあり、この記事が中津川会議を裏付けるものである。
 この会議での内容は、京都の形勢激変し、公武合体・航海遠略の建策実行せらるべきもないので、従来の方針を一変し破約、攘夷を唱えるべきと桂小五郎が領主を説得したというものである。