中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第九章 幕末の中津川

第一節 国学と中津川

一 国学と中津川宿役人

中津川宿の平田門人たちの活動については、諸記録によってあらましはわかるものの、維新前後の具体的な動きについては、間秀矩の「戊辰日記」と「東行日記」によって多くのことを知ることができる。
 この日記は簡略なメモ程度の小冊子で「戊辰日記」の表紙に「四之巻」とあるから少なくとも何冊かの一冊であることがわかる。記事の内容は、慶応四年(一八六八=明治元年)五月一日からはじまり九月一六日に及んでいる。この期間秀矩が京都に滞在し多くの有志たちとの交りがわかる。
 今この日記に見られる一つの特色は、間秀矩だけでなく地元平田派門人勝野吉兵衛・市岡殷政・肥田通光らも上洛し一緒に国学の同志らと行動を共にし国事に奔走していることである。
 親交の深かった同志には師岡節齋(正胤)、久保田禎造(名=信道、後に小川民五郎、信濃飯田)、原信好(まよみ)(信濃清内路村)、権田直助(通称は玄常、号は名越舎(なごしのや)、足利尊氏木像梟首事件、相模国)、松尾多勢子(松尾佐次右衛門の妻、女流勤王家、信濃伴野村)、池村久兵衛(義商、屋号いせ屋)、落合源一郎(直亮、江戸騒擾に参加、武蔵国)、三輪田元綱(足利尊氏木像梟首事件共謀、伊予国)、角田忠行(信濃佐久)、矢野玄道、西川甫等があり、他に公卿では岩倉具視をはじめ中山忠能・忠愛、中御門経之、大原重徳、高辻公本、白川資訓、姉小路公知、五条為栄らと交りを保ちつゝ国事に奔走し、さらに平田銕胤とも会っている。
 もう一点注意すべきところは、苗木領の平田学派門人青山景通との交りの深いことである。しかし記述内容が簡単で談合の内容等については詳しく知ることのできないのは残念である。
 「東行日記」は間秀矩が明治二年(一八六九)五月七日に中津川を発って東京へ行き、滞在した時の「戊辰日記」同様簡単なメモ程度のものである。内容的には前日記と大差ない。
 しかしこの日記で特に注目したいことは、六月三日の頃に「師家(註 平田銕胤)ニ至」とし続いて次の様な事項があることである。
 
[疑問] 古事記 ○天地初発之時 書紀 ○古天地未剖陰陽不分何レニ従フベキヤ
 ○高天原 天 何レノ所ヲサスヤ
 ○神 字義
 ○天御中主神 造化ノ主宰ナルヤ
 ○高皇産霊神、神皇産霊神 三神合テ造化主ト解ベキ歟(カ) 又主宰ハ天御中主神ニテ コノ二神ハ其功用ヲ施シ玉フ補翼ナリヤ
 又三神造化ノ主宰ナルヤ朝廷ニテ重ク御祭祀ナキハイカガ今日伊勢神廟ヨリ尊キ神マシマスベカラザル固ヨリノ事ナレバ コノ三神ハ御祭ナクテモ宣シカルベキ歟 神魂帰着ノ義ニハ大関係ノ事ナレバ 最第一ノ大事件ノ論ナリ
 ○隠身也 此形人体ト同ジキ哉(ヤ)、今現高天原ニマシマスヤ
 ○天神系統 古事記ニヨルベキカ 書紀ニヨルベキカ
 ○伊弉諾尊 伊弉冊尊 二神国ヲ生 山川ヲ生ノ説如何 海外ノ人此説ニ服スベキヤ 外国ノ服スル服セザル 関係ナキヤ 唯恐ラクハ宇内ニ及バシテ疑ヒナキニ非ズハ皇国ノ人ト雖モ服スベカラザルニ似タリ 存シテ論ズベカラザルモノ歟 如何
 ○日神 古事記 書紀ノ説簡易ニ偏シテ 人々聞取ヨクセザレバ 御功徳ヲ解クニ要領ヲ得難シ 又海外万国ニ拡充シテモ間然ナキニ非レバ 唯皇国キリノ説トナルベク 今日格物窮理ノ学行ルレバ 皇国ノ人ト雖 隘狭ノ説ニテハ疑ナキ事能ハズ 疑アルモノヲ以テ教トスレハ 誣(シウ)ルニ近シ 高明正大ノ説ナクンバ 皇国ノ大道タタザルニ似タリ 如何
 
 この記事の「疑問」は何を意味しているか不明であるが、平田教学の内包している神話について、新しい時代(社会)に対応してどう考え、どう取扱ったらよいか疑問を持ち、或は銕胤に尋ねたかもしれないが、このことについては記録されていないので推測の域を出ない。これから新しい時代に国学の教説がどうあるべきか、または国学についての疑問を感ずるようになってきたかどうかは、はっきりしない。