中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第八章 寺社

第二節 寺院

三 苗木領の寺院

雲林寺は遠山氏の居城苗木城山麓にあった。明治三年廃寺後は耕地(田)となり、周囲の墓所のみが昔の面影を伝えている。
 雲林寺は、天竜山雲林寺といい臨済寺で京都妙心寺派に属する。初代友政(久兵衛尉)が慶長一九年(一六一四)九月菩提寺として創建したと伝えられている。その建立に際して、伝えるところでは、友政は和知・野上(現八百津町)の正伝寺の維天和尚に大変帰依して、宗伝居士の法諱も受けた。友政は維天和尚によって菩提寺を建てようとしたが、維天は老齢を理由にこれを辞退し、夬雲和尚(関・梅竜寺八世、加治田・竜福寺二世)を推挙した。夬雲は梅竜・竜福の二寺を兼帯し、そのうえ本山妙心寺へも輪住していたので、雲林寺の創建については彼の高弟の中華に経営させた。そして、上棟式は慶長一九年(一六一四)友政大坂の陣(冬)出張留守中に行われたといわれ、同年九月雲林寺の方丈が建てられた。
 この雲林寺の称名は夬雲の命名で「雲門臨済の禅風をこの地に振興せしむ」との意味からであるといわれている。そして友政は夬雲から心月の法号を受けたので、元和五年(一六一九)一二月に没した折は、雲林寺殿心月宗伝居士と称号が贈られた。
 住持中華は友政の死に先だつこと四か月前に死去したが、法嗣がなく法系は一時跡絶えたが、彼の法姪にあたる一秀が雲林寺を継いだ。一秀は苗木深尾氏(給人通)の出であり、幼時より俊英で竜福寺に入って夬雲の弟子となり、その後竜福寺四世となった。こうして一秀によって雲林寺は寺統を確立したので、後世雲林では一秀を以て開山とも敬称している(美濃国苗木藩雲林寺興廃史・森牧閒以下興廃史・法界寺蔵)。

Ⅷ-33 苗木 雲林寺跡